文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

現在の保守論壇の、自閉的、同語反復的な言説空間は崩壊しなければならない。

25日の北千住読売文化センターでの講座「沖縄表象と保守論壇小林よしのりの『ゴ−マニズム宣言』論」も無事終り、翌日の「月刊日本」の忘年会などの用事も終わったので、僕は、例年通りに、今、田舎(鹿児島)に帰っているが、僕が頻繁に田舎へ戻るようになったのは、母の病気や入院、そして母が亡くなるという具体的理由もあるが、それだけではないような気がする。僕は、田舎に帰ると言っても、いわゆる恩師や級友や同級生、あるいは親戚、縁者という類の人間とは一切会わない。僕は過去を回想するような年代にあるのだろうが、まだそういう気分になれないし、そういう気分に成り切っているだろう、いわゆる現場を降りた人間達と席をともにし、気楽に談笑などして時間を潰したくない、と思う。さて、昨夜、気晴らしにテレビをつけたら、「戦力外通告」という番組をやっていて、思わず真剣に見てしまったのだが、これは、プロ野球選手が、古い言い方だが、生活の安定が担保されている「サラリーマン的存在」ではなく、いつ、首をきられてもおかしくない実存的存在だと言うことを思い知らされた番組だったわけだが、こういうふうに実存的決断を迫られているのは
、何もプロ野球選手に限らないわけで、たとえば選挙という関門を何年かおきに繰り返さなければならない政治家という存在もまたそういう実存的存在の代表だと言っても過言ではないだろう。少なくとも数ヶ月以内には選挙がやってくるはずの衆議院議員は、特に自民党系議員は、かなり多くの議員が落選確実だと言われるが、つまりこれは、落選即失業を意味し、翌日から路頭に迷うということを意味するわけだが、たとえどんなに大声で泣こうが喚こうが、しかも自ら選択した道である以上、この厳しい現実から逃げげることはできないのだ。ところで、異論や反論を徹底的に排除し、誰が発言したのか分からないような、瓜二つというか、金太郎飴というか、ほぼ同じような内容の言説と思想と理論を、同語反復的に粗製乱造し、痴呆的に拡大再生産しているのが、現在の保守論壇とその周辺にタムロする自称、多称の保守思想家や右翼活動家たち、あるいはマンガで政治や歴史や思想がわかると錯覚、妄想しているマンガ右翼たちであると言えば、それならば、「お前は左翼か?」、おそらく「隠れキリシタン」ならぬ「隠れ左翼だろう?」という疑惑と反感に満ち満ちた批判の大合唱が各
所で雨後の筍のごとく沸き起こりそうだが、僕にはそのような幼児的、マンガ的な差別的反応はどうでもいいことであって、そもそも学問や思想の言説に批判や論争、あるいは罵倒は不可避であって、つまりそれらは起きるべくして起きることであって、同じ保守陣営からの批判や論争など一切許さないと言うがごとき妄言は、ほとんど興味の対象外だが、むしろ僕が関心を持つのは、そのような批判や論争や罵倒合戦に対峙した場合における、宗教団体のごとき全員一致の大合唱を、飽きもせずに繰り返す保守論壇内外のその姿こそが現在の保守論壇的言説の貧しさと知的退廃の現実を象徴的に体言しているのではないか、ということの方である。むろん、僕は、小林よしのりとその仲間達のことを言っているのだ。小林は、「ゴ−マニズム宣言」という隔週連載の政治マンガで、まさしくマンガ的な批判や罵倒を繰り返していながら、一度、批判や罵倒の矛先が自分自身に向かい始めると、途端に態度を変え、ブンカジン気取りで、「この人は公的議論には向かない」「イタいネット魔」などと言い訳しつつ逃げながら、表向きには、批判や反論は歓迎するとか、ワシは逃げない、と言って虚勢を
はっているようだが、批判や反論を怖れて、逃げ回っているのは、小林よ、オヌシではないのか?と言ってもみたくなる。さて、小林よしのり的な無責任なマンガ的言説が、小林よしのり本人とは直接関係ないとしても、政界、経済界、マスコミ等の言説空間を覆ってしまったことに、現代日本の悲劇がある。