文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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岩田温氏の『チベット大虐殺と朝日新聞』(オークラ出版)を読む。

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ちょっと遅くなったが、いつもお世話になっている「日本保守主義研究会」代表で、月刊誌「澪漂(れいひょう)」の発行人でもある岩田温さん(拓大客員研究員)から、新著『チベット大虐殺と朝日新聞』(オークラ出版)が送られてきた。岩田さんは、まだ早大大学院を出たばかりの新進気鋭だが、すでに『日本人の歴史哲学』(展転社)という処女作もあり、新人のテビュー作というわけにはいかないが、今回の新著は、文字通り、次代の保守論壇を背負っていくだろう若手政治学者・岩田温の論壇デビュー作と言っていい著作だろう。チベット問題から中国問題、朝日新聞問題等のメディア問題等……、今、もっともホットな話題をめぐって、マスコミ的な表層的な議論に終始するのではなく、たえず文献や資料にあたり、また学問的背景に裏打ちされた重厚な議論を展開している。僕も、「丸山真男小林秀雄」を、隔月連載させてもらっている月刊誌「澪漂(れいひょう)」九月号では、早瀬善彦編集長(京大博士課程)と、この著書の刊行をめぐって対談も行っている。昨今の保守論壇の知的退廃に愛想を尽かしている方は、是非、ご一読を。さて、本書の中身だが、僕は、一部の右翼・保守派が「馬鹿の一つ覚え」のように繰り返す幼稚な「朝日新聞批判」の言説が好きではない、というより、それこそ右翼・保守派の知的退廃を体現していると思うからだが、しかし岩田氏の朝日新聞批判は、そういう幼稚・稚拙な批判ではなく、朝日新聞が、「チベット問題」で、これまで、どういう報道をしてきたかを具体的に、実証的に過去の資料に基づいて批判したもので、盲目的に朝日新聞を批判することだけが目的ではない。そもそも「チベット問題」は、中国共産党政府が、一方的に侵略・併合し、反乱分子を徹底的に弾圧している、と言うように、思想的に単純に解釈できる問題ではない。つまり解釈、評価する側の「政治思想」的立場が問われているのが、チベット問題である。言い換えれば、中国には中国の言い分があり、チベットにはチベットの言い分があり、同じように朝日新聞には朝日新聞の、あるいは産経新聞には産経新聞の言い分があるだろう。岩田氏の著書で、注目すべきは、朝日新聞チベット問題に対して、問題発生の初期の頃は、必ずしも「親中国的……」ではなく、むしろ中立的な報道に徹してきたと言う事実を、資料と文献に基づいて公平に明らかにしていることだろう。朝日新聞は、何時、どのような事件を契機に、どのような思想的根拠に基づいて、チベット報道の言説で、その報道姿勢を転換したのか。これらの問題を明らかにしない限り、チベット問題をタネに朝日新聞批判を繰り返しても、その思想的幼稚さを笑われるだけだろう。そこで、岩田氏は、凡庸な右翼・保守派のステレオタイプ朝日新聞批判の言説と分かれる。岩田氏の主張によると、朝日新聞の思想的変節は、日本が主権を回復した1952年4月28日に求められる、と言う。この日をターニングポイントとして、朝日新聞は、単にチベット問題だけではなく、思想的大転換を行ったが、その一つが朝日新聞チベット報道の変質であり、そのバックグラウンドとしての朝日新聞の言説の思想的変節である。つまり、朝日新聞は、GHQによる六年余の占領期間は、GHQの情報統制、思想検閲に従順にしたがって、共産主義には批判的であり、つまり「反共」的であったが、つまりその時点では朝日新聞チベット報道は中立的で、客観的であったが、GHQという重石がとれると同時に、「反共」から一挙に「容共」「親共」に変質し、そこからチベット報道においても、中共政府よりの政治姿勢に大きく変質し、中共政府主導によるチベット革命への擁護的報道へと暴走し始める、と言うわけである。その頃からの朝日新聞チベット報道の言説は、中共人民解放軍による「抑圧からの解放」「自由化」「民主化」という典型的な進歩主義的な解放史観に基づく言説へと変貌する。人民解放軍が侵略・解放するまでのチベット人民は、抑圧、弾圧されて、自由はなかったというわけだ。むろん、とんでもない歴史観だが、そういう歴史観が完全に間違っているとは必ずしも言えない。むしろ、「人民解放史観」的な進歩史観を認めるとすれば、つまり人民解放史観としての唯物史観、ないしは進歩史観を真理として前提とするとすれば、その歴史観は否定できないということになるだろう。現に、われわれが学習したり、愛読したりする歴史や物語とは、ほとんどそういう史観によって書かれている。たとえば、日本人が、英雄とあがめる織田信長だが、彼が何人の無辜の民を殺したか、どれだけの僧院を焼き討ちし、どれだけの僧兵を虐殺したか、を考えてみれば一目瞭然だろう。むろん、ここに歴史のパラドックスが、歴史観パラドックスがある。たとえばドストエフスキーの文学は、そのパラドックスの探求というところに成立する。『罪と罰』の主人公・ラスコーリニコフとは、実は、人民解放史観的な、つまり朝日新聞的な歴史観の持ち主として、つまり「虱のような老婆」の一人や二人を抹殺したとしても(アリョーナ殺し)、人類にとって価値ある、偉大なる目的を実現する事が出来る(ナポレオン)とすれば、言い換えれば理想社会としての共産主義社会を実現できるとすれば、それは、つまり殺人や大虐殺も許されるはずだ、という論理と思考に取り付かれた人物として、設定されている。ラスコーリニコフは、ペテルブルグの街を夢遊病者のように歩きながら、「俺に『あれ』が出来るだろうか……」と自問する。「あれ」とは何か。むろん「あれ」とは、金貸しの老婆殺し(アリョーナ殺し)であるが、この「あれ」という言葉には、隠喩的に別の意味が、ドストエフスキー自身が革命家、ないしはテロリストとして逮捕され、死刑を宣告されたことがあることが示すように、実は、「皇帝殺し」の意味が込められている。ラスコーリニコフが金貸しの虱のような「老婆」を殺すということは、究極的には「皇帝」を殺し、国家を変革して、農奴を解放し、自由と平等の理想社会を実現するために踏み出すべき「一歩」、つまり「踏み越え」なのである。ラスコーリニコフは、その「一歩」の「踏み越え」に、全神経を集中させ、その結果、その「一歩」の「踏み越え」に震えおののき、やがてロシアの大地にひれ伏すのだが……。ドストエフスキーは、ラスコーリニコフ的な進歩史観の根底にあるが、誰もが無視、黙殺している、あるいは誰もが気付かない、いわゆる進歩史観の現実性と空想性の間の微妙なパラドックスを凝視し続けた作家なのだ。ところで、岩田氏によると、朝日新聞は、GHQの呪縛から解放された後、チベット問題を、中国政府サイドの歴史観、つまり「人民解放史観」、あるいは「チベット解放史観」に基づいて書き始めるわけだが、そこで、いわゆるチベット人武装蜂起を「チベット暴動」と書き、それに対する「チベット大虐殺」を、当然の如く「解放美談」として書くことになる。だが、朝日新聞も、共産主義の崩壊や終焉を突きつけられると、中国政府のように、一貫した解放史観に基づくチベット報道の言説を維持・継続することは出来なくなり、密かに、欧米中心主義的価値観とも言うべき「自由」「人権」を軸にした史観へと、少なくとも表面的には態度変更せざるを得ない。共産主義や進歩や改革が「正義」や「理想」でなくなり、「人権」や「民主化」というイデオロギーが、欧米を中心に、ロシアや中国をも巻き込んで、世界の趨勢となってきた現在、朝日新聞も、中国よりの改革・解放的なチベット報道を、何時までも続けるわけにはいかない。というわけで、現在、朝日新聞は、あたかも中立的、客観的なチベット報道を、これまでも、継続してきたかのように、あらためて偽装せざるをえない。「チベットの人権を護れ」というわけである。むろん、その言説が偽装であることは言うまでもない。(この稿続く)




http://www.7andy.jp/books/detail/?isbn=978-4-7755-1250-0


●日本保守主義研究会講演会「混迷する政局を斬る!」
 講師:花岡信昭産経新聞客員編集委員
 日程:10月5日(日曜日)
 時間:14時開会(13時半開場)
 場所:杉並区産業商工会館(杉並区阿佐ヶ谷南3−2−19)
※JR中央線阿佐ヶ谷駅南口より徒歩6分
 地下鉄丸ノ内線南阿佐ヶ谷駅より徒歩5分
会場分担金:2000円(学生無料)
参加申し込み、お問い合わせは事務局まで。
TEL&FAX 03(3204)2535
        090(4740)7489(担当:山田)
メール  info@wadachi.jp