文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小林よしのりは『沖縄ノート』を読んでいない。

驚くべきことに、小林よしのり言説から推察するに、小林よしのりは『沖縄ノート』を読んでいないことがはっきりしている。これでは、おそらく、小林よしのりは、『ある神話の背景』も読んでいないのではないか、と思わせる。小林よしのりが、大江のアイヒマンに関する記述を読んでいないだけでなく、アイヒマンについてハンナ・アレントが書いていることも、何も知らないということが、はっきりしている。小林よしのりは、次のようにいっているからだ。

ユダヤ人虐殺の中心人物とされたアドルフ・アイヒマンにまで赤松隊長を喩えている。「イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった。しかも「この法廷をながれるものはイスラエル法廷のそれよりもっとグロテスクだ」と。゛ホロコーストよりもっとグロテスクなことを赤松隊長はやっている゛と断じたわけだ。極限の中傷であり、これで名誉毀損でなければ、もはや何でも書ける。

この書き方から見ると、小林よしのりは、大江健三郎を批判する側の人間がよく書く、いわゆる雑誌類に散見されるような、一般の書き方と変わらない書き方をしているが、これはつまり、大江健三郎を正確に読まずに、あるいは大江健三郎の本を手に取ることもなしに、噂を信じて書いている人の書き方である。ところが、大江健三郎は、小林よしのりの言うようなことは書いていないわけで、まず大江健三郎は、赤松隊長をアイヒマンに喩えているというが、赤松隊長とアイヒマンを対等に、より正確に言うと同列に比較していない。すくなくともここでは、大江健三郎は、赤松隊長を、アイヒマン以上の悪人と見做している。大江健三郎は、アイヒマンを「ドイツ人青年」たちの罪の意識の軽減ということに意を尽くした人として捉えており、自らの戦争犯罪に関して無頓着な人として捉えている。つまり、大江健三郎は、ハンナ・アレントのそもそもの主題がどうであれ、アイヒマンに、誤解を恐れずに言えば、かなり好意的なまなざしを向けている。ところが、赤松隊長に対してはまったく別であって、アイヒマンとは比較にならない人として捉えている。これは、別に赤松隊長が、小林よしのりも言うとおり、アイヒマンよりさらにあくどいことをしたと言う意味ではなく、つまり戦争犯罪の質という事ではなく、戦後の戦争犯罪に対する意識の問題として捉えている。小林よしのりの読み方は、多くの人が大江健三郎の問題意識を理解しないままに了解した読み方を踏襲しているので、このことからも、小林よしのり大江健三郎の『沖縄ノート』を読んでいないことは、一目瞭然であるといえよう。では、小林よしのりは、何故、こんな初歩的な誤読を敢えてしてしまったのだろうか。他の問題では、かなりの軌道修正を試みているのに、何故、このアイヒマン問題だけは、保守論壇に蔓延する誤った読み方を、今までどおり、踏襲したのかと言えば、それは、僕の書いた「沖縄集団自決論文」に、紙数の関係で、この問題の部分が書いていないからであって、軌道修正を試みようにも、そのお手本になるものがなかったからである。しかし、僕は、全然、書いていないかと言うとそうではなく、このブログで、この問題については既に触れている。小林よしのりが、おそらく気が付かなかっただけなのである。にほんブログ村 政治ブログへ