文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

宮平秀幸が母親証言を否定……。苦し紛れに母親の証言は「間違いだ」と追加証言。恥の上塗りだろう、それ……。いつまでも引きずり回さないで、いい加減、証言者を、解放してあげなよ。


つくる会」が、今日のブログ更新で、母親の証言は「間違いだ」という宮平秀幸証言の恐るべきというか、恥の上塗りというか、まことに支離滅裂な自己弁護の「追加証言」なるものをアップしているが、これこそまさしく宮平秀幸証言が「ガセネタ」だったことを自ら暴露しているようなものではないだろうか。僕は、宮平秀幸なる人物に同情こそすれ、何の恨みも怒りも持たないが、宮平秀幸なる人物を裏で操作し、自分達に都合のいいように洗脳し、利用し、誘導している「ヤマタノオロチ」どもには怒りと絶望を感じている。ここまで堕ちたか日本の保守よ……ということである。「週刊金曜日」3/21でも、日本の保守派の無知無学と、思想性と倫理性の欠如ぶりを徹底的に暴いておいたので、是非、一読していただきたいが、さて、この母親の証言記録の存在を、僕がこのブログで公開し、宮平秀幸証言との食い違いを指摘しておいたのは3月14日(↓)であったが、この宮平秀幸の追加証言の日付も「3月14日」になっているが、むろん偶然ではないだろう。そして、藤岡信勝等「つくる会」は、おそらく、大慌てで証言内容を比較検討し、辻褄合わせの作文を作成し、それを宮平秀幸からの「追加証言」という形で、「3月18日」の日付で、今日(3/19)、ブログにアップしたというわけである。ちなみに宮平秀幸は、僕が予想していた通り母親の証言記録を知らなかったようで、もし知っていたらあんなデタラメな「証言」(大嘘)を恥ずかしげもなくするはずがなく、今頃、あわてて、母親の証言は間違いだ、などという、それこそとんでもない親不孝な話の辻褄合わせと、証言の軌道修正に躍起になっているところだろうが、一度ついた嘘は、取り返しが付かないわけで、その嘘を取り繕うには、さらに嘘の上に嘘の上塗りをするほかはないはずで、いずれにしろ、赤っ恥をかいていることだろう。宮平秀幸は、母親の証言に10箇所も間違いがあると指摘しているが、ということは宮平秀幸の母親は「大嘘吐き」ということになるわけだが、宮平秀幸としては、それだけ間違いを指摘しておかないと、自分の証言の信憑性が疑がわれるだろうことを知っているからだろう。

座間味村史(下)』(1989年刊行)に証言が掲載されている宮平貞子は私の母です。母は、1993年8月に亡くなっています。私はこの母の証言をつい最近読みました。事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました。母のことを言いたくはありませんが、間違いは間違いとしてハッキリさせる必要があります。(「宮平秀幸追加証言」より。以下に全文引用。)

母親が嘘をつくはずがない、というより嘘をつく必要性が全くないだろう、と僕のような部外者は思うのだが、はたして、何か、宮平秀幸の母親には、嘘をつかなければならない理由でもあつたのだろうか。「事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました」と死後になつて、実の息子に、「嘘吐き」呼ばわりされなければならないような暗い過去でも、この母親にはあったのだろうか。僕はそんなことはないと思うが、いずれにしろ、宮平秀幸は、軍の陣地の前で、梅澤隊長と助役等の「自決するから武器弾薬をくれ」「自決するな。武器弾薬は渡せない」という言葉のやりとりを、すぐ近くで聞いていたと証言しているが、その時刻に、母親は、「家族全員で壕にいたが、伝令も来なかった……。忠魂碑前にも行っていない……」と証言しているわけで、宮平秀幸が、この母親の証言記録の存在すら知らずに、死人に口なし、ということをいいことに意気揚々と大法螺を吹いていたことは明らかであり、その後、宮平秀幸が、母親の証言の存在を知り、それを初めて読み、おそらく顔面蒼白になり、目の前が真っ暗になったことは想像に難くない。そして自分の仕出かした自作自演の大失態を取り繕うのに、自分を産み、育ててくれた実母の貴重な証言記録を、「間違いだ」ということにし、結果的に、母親は「大嘘吐きだった」と裏切り、公衆の面前で、しかも文書まで書いて母親を告発しなければならなくなった自分の運命に、これからどう向き合って生きていくのだろうか。むろん母親の証言にまったく間違いがないはずはなく、すべて真実だと言うことは出来ないだろう。おそらく記憶違いや勘違いもいくつかは含まれているだろう。しかし、重要な証言部分で、宮平秀幸が指摘するように次々に間違うはずはない。たとえば、母親は忠魂碑前には「行かなかった」と証言しているのに対して宮平秀幸は「行った」と証言している。決定的な食い違いがここにはある。どっちかが嘘をついている可能性が高い。さて、宮平秀幸が母親の証言の間違いを指摘している中で、もつとも重要な部分は、次の部分ではなかろうか。

⑧ 家族が私の家の壕に戻ったあとも、私は家族とともに居たように書かれていて、「三男[私]」が、「何言うか、あれはアメリカーだよ。上陸してきたんだ」と言ったことになっていますが、私はすぐに任務に引き返していて、家族と一緒には居ませんでした。(「宮平秀幸追加証言」より。以下に全文引用。)

僕は、この部分を読みながら、宮平秀幸本田靖春に証言したことを思い出さないわけには行かない。宮平秀幸は、本田靖春に対しては、「任務」の話や、「任務に引き返し」たというような話は一言もしていない。何故か。15歳にして「伝令係」「連絡係」という軍の任務を実践していたのなら、本田靖春に話さないはずがないと思うのは僕だけだろうか。宮平秀幸は、別の人への証言では、「米軍捕虜第一号だった」とも証言しているようだが、「任務に引き返した」ことと「米軍捕虜第一号だった」ということとは、どのように関連付けられるのか。母親は、26日に捕虜になったと証言し、宮平秀幸も某証言では26日に捕虜になったと証言しているが、別に今さら聞きたいとも思わないが(笑)、捕虜になった時の情況は、どういうものだったのか、是非とも詳しく聞いてみたいものである。ところで、異母姉弟関係の姉や姪の証言や記録が、大嘘だとか、間違いだらけだと言っている頃までは、まだ、かすかにではあるが、まともな部分も残っているのかなと思わないではなかったが、たかが梅澤裕という「くずれ軍人」の名誉回復のために、実母の証言を「大嘘」呼ばわりし、自分を産み育ててくれた「母親を売る」とは、証言の中身がどうのこうの言う前に、人間失格であり、ことここに至っては、僕でなくても世も末だな、と慨嘆せざるをえないだろう。実は、宮平秀幸には、もう一つ、いや、後二つの証言があることも、わかっている。その一つは、専修大学の某ゼミが、歴史証言研究のフィールドワークとして行った座間味島での聞き取り調査において、またまた宮平秀幸なる証言者の名前が登場し、そこでも辻褄の合わないような、怪しい「証言」をしているが、その時、宮平秀幸にインタビューしたらしい学生のレポートを見ると、宮平秀幸という証言者は、単に自分の体験した事実だけを語る人ではなく、「戦争とは何か」「証言し、記述するとはどういうことか」というような戦争体験や歴史研究、歴史記述の本質論や抽象論まで語る人だった、と書いているが、宮平秀幸という証言者の証言の性質をよく見抜き、正確に分析していると言っていい。また某社のビデオにも証言者として出演し、そこには「自分は米軍捕虜第一号だった……」という証言記録も残されているようだ。要するに、宮平秀幸という人物は、島を訪れる人には、必ず、集団自決の証言を、面白おかしくおしゃべりする「証言マニア」らしいのである。いずれにしろ、向こうからやってきて、立て板に水のようにペラペラと証言する証言者に騙されないように気をつけよう、というのは歴史研究に限らず、あらゆる人間研究のイロハであって、そんなミエミエの証言詐欺師に騙され、騙されたことにも気付かずに、テレビや新聞を使って大々的に宣伝しまくる方が馬鹿なのだ。見ず知らずの余所者に、誰が「歴史の真実」など、やすやすと証言するものか。わかりきった話ではないか。



山崎行太郎のブログ「毒蛇山荘日記」(3/14)
宮平秀幸の母・貞子の証言……。「家族全員で壕にいたが、伝令も来なかった……。忠魂碑前にも行っていない……」
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20080314



つくる会」ニュース(3/19)
宮平秀幸追加証言(3/19) http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_231.htm
宮平秀幸新証言(3/10) http://www.tsukurukai.com/01_top_news/file_news/news_229.htm

つくる会」ニュース
第230号 平成20年 3月18日(火)

宮平秀幸氏が補足証言を発表
座間味村史』の母(貞子)の証言の間違いを指摘



  3月10日沖縄県庁の記者会見で発表された、沖縄戦座間味島集団自決」に関する宮平秀幸氏の新証言については、FAX通信第229号(3月10日付)でお知らせしましたが、この新証言を補足する証言が3月14日に発表されましたのでお知らせします。
宮平秀幸氏の補足証言は次のとおりです。

  証言・座間味島集団自決の「隊長命令」について(補足)

                                            平成20年3月14日
                                                     宮平 秀幸
 ■宮平家の壕にて
昭和20年3月25日夜の出来事について、前回の証言を補足します。宮平家の壕はシンジュというところにありました。私は戦隊本部の壕で伝令の任務についていて、家族とは分かれていましたので、忠魂碑前に集まれという村からの指示を直接聞いたわけではありません。忠魂碑前に行って家族と一緒になってから、母(貞子)と姉(千代)に聞いた話は次の通りでした。
 夕方、村の役場の女子職員が伝令で来て、お米の配給を取りに来るように言いました。私の家の壕には木炭はありましたが、七輪はありませんでした。お米の配給をもらってもご飯を炊くことは出来ません。それでも、姉がお米をもらいに出かけようとしましたら、祖父が「千代、行くな。艦砲が激しいから、行ったら帰って来れなくなる。飢え死にしてもいいから行くな」と止めました。
 そのうち、防衛隊の漁労班に行っていた長男の秀信が、玄米のごはんのお焦げを持って来ました。それをみんなで食べるか食べないかのうちに、午後8時ころ、役場の伝令役の宮平恵達が壕のところに来ました。うしろには宮平ツルの姿も見えました。恵達が、「ほい、ほい、誰かいるか。僕は恵達だが」と声を掛けました。「はい」と母が返事をしました。祖父が「フカガリク[屋号]の恵達か?」と聞きました。恵達は、「はい、フカガリクの恵達です」と答えました。そして、「おじい、軍の命令で集団自決するから、忠魂碑前に集まってくれ。軍が殺してくれる。爆薬をくれるというから、アッという間に終わる。遅れたら自分たちで死ななければならないよ。遅れないように、ぐそうすがい[あの世に旅立つ時に着けていく晴れ着]を着けて来てください」と言いました。

 ■忠魂碑前にて
 午後9時ごろ、祖父母、母、姉、妹、弟の6人の家族が連れ立って忠魂碑前まで歩いて行きました。家族は、忠魂碑に向かって右手の30メートルくらい離れた窪地に固まっておりました。宮里盛秀助役から、私の家族が自決するために忠魂碑前に集まっていると聞いた私は、心配になって忠魂碑前にやってきました。母や祖父母の姿はすぐに見えましたが、姉の千代の姿が見えなかったので、「千代姉さん、来てるのか?」と聞きましたら、姉は「はい。秀幸、あんたも元気か?」と言いましたから、「僕、無事だよ」と答えました。
 母が「秀幸、こっちに来なさい」と呼ばれたので、私は「たった今、本部の壕からここに来たのは、村長、助役、収入役、校長、それから恵達だよ」と言いました。母は「何で早く自決をさせないの?」と聞きますので、私は声を潜めて、「今さっき、役場の三役が隊長に自決するから爆薬を下さいと言ったんだけど、隊長が断って、自決用の弾薬も何もない、自決してはいけないと命令したので、この役場の人たち、自決をやめるために帰って来たんだよ」と言いました。母と祖父は、こもごも、「軍の方から何も貰えないのに、『軍が忠魂碑の前で自決させるから』と言ってみんなを呼び出しておきながら、今あんたの話を聞いたら、自決は中止だというんだから」と、村の幹部について批判的な口調で言いました。そして、母は「どうしたらいいの?」とぼやきました。私は本部壕前のことを話してやりました。
 そのうち、村長が「今から大事な話をするから、みんなこっちに寄って来なさい」と言いました。その内容は前回の証言で述べた通りですが、村長の解散命令を、母や私の家族はみんな自分の耳で聞いています。

■『座間味村史』掲載の宮平貞子(母)の証言について
 『座間味村史(下)』(1989年刊行)に証言が掲載されている宮平貞子は私の母です。母は、1993年8月に亡くなっています。私はこの母の証言をつい最近読みました。事実と違う、つくりごとが書かれているので驚きました。母のことを言いたくはありませんが、間違いは間違いとしてハッキリさせる必要があります。母の証言の明確な間違いは次の通りです。
 ① 千代姉がお米をもらいに行こうとして祖父に止められたのに、母の証言では家族全員でお米をもらいに出かけたことになっています。
 ② 恵達とツルが役場の伝令で来て、軍命だとして忠魂碑前に集まるように言ったのに、その伝令がなかったかのように書かれています。
 ③ 家族は間違いなく忠魂碑前に行って、そこで長い時間過ごしているのに、忠魂碑前には行かなかったと書いています。
 ④ 整備中隊の壕の前で、「兵隊さんに殺してもらう」と言おうというのが母と姉の案でしたから、私が代弁してそう言いましたが、兵隊さんの方から「殺してあげる」とは言っていません。
 ⑤ 整備中隊の壕でたくさんの食料をもらって、「生きられるだけ生きのびなさい」と励まされたのに、そのことが書かれていません。
⑥ 「三中隊の兵隊さんの壕」と書いているのは、「二中隊」の間違いです。
 ⑦ 二中隊の壕でも食料をもらったことが書かれていません。
⑧ 家族が私の家の壕に戻ったあとも、私は家族とともに居たように書かれていて、「三男[私]」が、「何言うか、あれはアメリカーだよ。上陸してきたんだ」と言ったことになっていますが、私はすぐに任務に引き返していて、家族と一緒には居ませんでした。
 ⑨ 母は、「おじい、綱を貸してちょうだい。早く子供たちを殺さないとならないけど」と言ったことになっていますが、考えられません。死ぬという気はなかったと聞いています。また、綱を使わなくても、死ぬなら包丁も竹槍も備わっていました。
 ⑩ アメリカ兵からもらったチョコレートを、母は「毒が入っている」と言って、子供たちが食することを禁止したことになっていますが、実際はチョコレートを沢山もらって妹も弟もおいしいと喜んで食べていたというのが事実です。