文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

昨日発売の月刊論壇誌「正論」にエッセィを発表しました。ご一読を・・・。

早大大学院の岩田、京大大学院の早瀬の両君と・・・。薩摩半島「毒蛇山荘」前で・・・。





小林秀雄宮本顕治・・・左翼にも受ける小林秀雄。。


先日、元日本共産党議長・宮本顕治が98歳で亡くなった、という新聞記事を見ながら、私が一番先に思い浮かべたのは、共産党の権力闘争史でも、戦後政治史における宮本共産党のはたした役割でもなく、実は政治とはあまり関係のない文芸評論家・小林秀雄のことだった。小林秀雄は、「思想にもドラマがある」と言っているが、小林秀雄宮本顕治の間にも、一部の専門家以外にはあまり知られていないが、「接近と遭遇」という小さな思想的なドラマがあった。小林秀雄宮本顕治と言えば、思想史的には日本の右派と左派をそれぞれ代表する人物であって、二人の間に、語るに値するような思想的接点など、あるはずがないと考えるのが常識だろう。しかし、意外なところに接点はあるのだ。
よく知られているように、小林秀雄のデビュー作は、昭和四年、雑誌「改造」の新人賞に応募して二等佳作入選した「様々なる意匠」である。日本の近代批評はここから始まったと言われているが、実はその時、小林秀雄を押し退けて一等に選ばれたのが、当時、まだ東大経済学部学生だった宮本顕治だった。マルクス主義の視点から、芥川龍之介の自殺を、「敗北だ」と否定した「敗北の文学」だ。マルクス主義全盛時代を象徴する話である。
さて、文芸評論家・小林秀雄の最大の文学的テ−マは何だったのだろうか。それは、「マルクス主義批判」だった。当時、インテリや学生の間で隆盛を極めていたのがマルクス主義でありプロレタリア文学だったが、それを、芸術派・保守派の立場から理論的に批判し、論破し、打倒したのが小林秀雄だった。小林秀雄が、マルクス主義者たちとの論争に勝利したことは歴史が証明しているが、論争相手の中には、後に獄中生活を経て共産党議長となる宮本顕治もいたはずだ。
ところで、誤解を恐れずに言えば、近代日本における「保守思想」は、小林秀雄の、このマルクス主義、あるいはマルクス主義者たちとの思想闘争という「ドラマ」の過程から生まれ、成長・発展したものである。つまり、小林秀雄的な芸術主義も保守主義も、マルクス主義という外来の巨大な思想体系に対するアンチ・テ−ゼとして事後的に生まれたものだ、ということだ。小林秀雄自身も、「すべてマルクス主義との出会いから始まった」と、言っているが、この「小林秀雄マルクス体験」という思想的ドラマに注目し、高く評価したのが丸山真男だった。というのも皮肉な話だが、逆に多くの小林秀雄崇拝者たちは、この問題にまったく無知であったように見える。彼等は、小林秀雄を盲目的に崇拝するあまり、「批評家小林秀雄の誕生」というドラマの裏に隠されている「もう一つのドラマ」、つまり「マルクス主義からの影響」という問題に無関心だった。小林秀雄の思想や言葉を引用するだけで満足し、マルクスをろくに読もうともしなかった。小林秀雄的に言えば、それこそが「様々なる意匠」の虜になっている証拠なのであり、小林秀雄マルクス主義批判で否定・告発した「概念
の欺瞞性」そのものなのだ。
いずれにしろ、小林秀雄自身は、マルクスもよく読んでおり、マルクス主義や左翼理論にも精通していた、と小林秀雄の系譜につながる左翼系の批評家である吉本隆明柄谷行人も言っている。特に柄谷行人は、マルクス読解を小林秀雄から学んだ、と告白している。つまり、これは、小林秀雄的な芸術主義も保守主義も、マルクス主義との対話や交通というドラマなしにはありえなかった、ということだ。そして、小林秀雄の影響は、保守陣営だけでなく、左翼陣営にも及んでいるということだ。むろん、これは我が国の保守主義の存在意義を否定するものでも冒涜するものでもない。ホンモノの思想とは、元々そういうものだろう。左翼とか右翼とかいう政治的イデオロギーを越えた、いわゆる存在論的思考こそ、思想家や批評家には不可欠なのだ。