文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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■何故、論壇誌で「文芸時評」なのか?

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■何故、論壇誌で「文芸時評」なのか?

繰り返しになるが、私が、本誌のような論壇雑誌で、貴重な誌面拝借して、政治論や経済論ではなく、「文芸時評」なるものを連載している根拠を簡単に述べておきたい。結論を先に言ってしまえば、私が文芸時評にこだわるのは、昨今の論壇雑誌の論文の多くに何かが欠如していると思うからだ。欠如しているものは、文学的、芸術的、あるいは哲学的視点だ。そんなものは政治や経済を論じるのに必要ないと考える人もいるかもしれないが、むろんそう考えるのは自由だが、やはり政治論や経済論のタームだけで政治や経済の本質を語ることには限界があることは、我が国の論壇が、長年、文学関係者で占められて来たことからも証明できるだろう。たとえば、ニーチェは、「科学で滅びないために芸術がある。」と言っているが、政治や経済が人間の行為である以上、そこに科学や学問では解決不可能な問題があることは当然だろう。そこで必要になるのが、総合的な人間存在論としての芸術的思考であり、哲学的思考なのだ。むろん、科学もまたいつも科学的、科学主義的だというわけではない。科学や学問もまた、最先端の領域では芸術的であり、哲学的なのである。しかし、昨今の論壇に
蔓延しているのは、議論や論争を好まず、ほぼ全員一致のファシズム的言動を反復する問答無用のドグマチズムばかりだ。たとえば私は、この連載で何回も大江健三郎に言及し、しかも大江健三郎を肯定的に論じている。おそらく保守派を自認する読者の多くには不愉快なことだろう。しかし、私は大真面目なのである。大江健三郎の小説や批評は、左翼とか右翼というような政治的イデオロギーを越えたところに成立している。だからこそ三島由紀夫も、大江健三郎の小説をしはしば絶賛し、大江健三郎の才能に注目したのである。ちなみに、大江健三郎ノーベル賞を予言した唯一の日本人が三島由紀夫だった。私が、昨今の論壇に欠如していると思うのは、三島由紀夫的な思考である。というわけで今月も、少し異質な作品を取り上げてみたいと思う。

吉本隆明黒田寛一

佐藤優について論じた時、ちょっと触れたことがある文芸評論家のスガ(糸篇に圭)秀実が、「早稲田文学」(ゼロ号)に、「吉本隆明黒田寛一」という面白い評論を書いている。詩人、文芸評論家として、あるいは作家吉本ばななの父として、すでに市民社会から高い評価を得ている吉本隆明はともかくとして、JR労組問題等で悪名高い過激派組織「革マル派」教祖の黒田寛一を堂々と論じるなんて荒業は、おそらくスガ秀実ぐらいしか出来ないだろうから、時期的には少しズレているが、ここで取り上げることにする。世の中が小市民民主義一色になり、誰もが社会的地位や名誉やゼニカネばかりを欲しがって一喜一憂している現在、たとえば元は全共闘活動家だったが、今は政府顧問や都副知事職に嬉々として飛び付く猪瀬直樹のような上昇指向の変節漢ばかりが我が物顔で横行する現在、徹底して市民社会を拒絶し、地位も名誉も求めず、ただひたすら反社会的な革命闘争を続けた黒田寛一を論じることは、文学論、芸術論にとっても必ずしも無意味ではないからだ。たぶん、黒田寛一という名前にあまり馴染みのない人も少なくないだろう。そもそも黒田寛一とは何者か。その存在
は、盲
目の哲学者だとか、元々は府中の大病院の御曹司だとか、伝説と謎に包まれているが、スガ秀実によると、こうだ。
黒田寛一は、梅本克己や梯明秀武谷三男など、いわゆる「戦後主体論」を継承する在野の哲学者として出発した。六十年安保時には、革共同として極少数派だったが、全学連全日本学生自治会総連合)をひきいた共産主義者同盟(ブント)とともに最左翼を担った。ブントは、スターリン批判に触発され、日本共産党から分派した学生コミュニストを中心とする「党」である。ブント結成に際しては、黒田哲学も触媒的な力を発揮した。》
黒田寛一の出発は、マルクス主義哲学者としてであり、決して怪しいものではない。その後、左翼過激派は分裂や合流を繰り返し、激しい「内ゲバ闘争」などを経て、ほとんどの左翼組織が壊滅した中で、実質的にはほぼ唯一、現在まで生き延びている左翼組織が、黒田寛一が率いて来た「革マル派」である。さて、スガ秀実が論じているテーマだが、それは、私も文学論のテーマとして重視している芸術家と革命家の「市民社会からの孤立」であるが、スガ秀実のこの評論ほど芸術家や革命家の反社会的孤独性について徹底的に論じたものは、今までに読んだ記憶がない。スガ秀実は、黒田寛一を論じながら、ほぼ同時代に左翼として活躍したが、その後、市民主義に転向し、その結果として市民社会的地位や名声を獲得した丸山真男鶴見俊輔吉本隆明、西部すすむ等と対比しつつ、黒田寛一の「市民主義批判」と「反市民社会」の度数の異常な高さを強調している。大学教授職やブルジョワ・ジャーナリズムでの活動を拒絶し、市井の一知識人として生き続けている吉本隆明の社会的孤立も、黒田寛一には遠く及ばないということだろうか。たとえば、スガ秀実は、「ドレフュス事件」以後に
誕生したフランスの「芸術家」と対比しつつ、黒田寛一の著作活動について、こう書いている。
《それは、アカデミズムから「疎外」され知識人界の主流からも「疎外」されているがゆえに、「芸術」であり、「革命家」なのである。吉本隆明丸山真男に象徴されるアカデミズムを嫌悪し、(中略)黒田のアカデミズムにたいする「疎外感」にはすさまじいまのがある。そして事実、黒田は知識人界からは完璧に「疎外」されてきたと言ってよい。黒田の生涯にわたる膨大な論文のうち、商業誌に発表されたのは三本だけだというのだ。そのような「疎外」こそが、黒田をして預言者的な「宿命的に世界を背負う人」たることを保証しているのである。》
黒田寛一の政治思想の中身はともかくとして、その生き方は、やはり魅力的だと言わなければなるまい。それにしても、スガ秀実の分析は鋭い。黒田寛一という危険人物を、こういう視点から論じられるのは、やはりスガ秀実が、優れた文芸評論家だからたろう

■吉本・黒田論争の意味

スガ秀実は、この評論を、吉本隆明黒田寛一論からはじめている。吉本隆明は、六十年安保闘争の総括をめぐって思想的に対立し、批判や罵倒を繰り返していたにも関わらず、一九八一年に鮎川信夫との対談でこう語っているそうだ。
《そこのところだけ言えば、黒田寛一と”革マル“だけが本気ですね。つまんないことをして消耗しているけれども、徹底的に思考していますね。水平線の上にでられないでアップアップしてるみたいですけれど、本気なのはそこだけどすね。》
ここで吉本隆明が、「つまんないこと」と言っていのは、当時、革マル派中核派などとの間で繰り広げ、百名を越える死者を出し、苛烈を極めていた「内ゲバ」のことらしいが、いずれにしろ、吉本隆明黒田寛一論は絶賛に近いホメコトバと言っていい。しかもさらに吉本隆明は、黒田寛一に対して、「異類ではあるけれど根底的に通じるものがある」とも語っていると言う。これは、吉本隆明が保守派の批評家・江藤淳に対して言った、「一周回って一致する」という言葉とほぼ同義だろう。つまり、これは、スガ秀実も言っているが、吉本隆明にとって、「黒田寛一江藤淳にも匹敵するところの、『根底的に通じる』存在だということだろう。」では、吉本隆明が、六十年安保闘争の総括をめぐって、あくまでも労働運動重視の黒田寛一に対し、思想的に対立し、激しい罵倒合戦を繰り返していたにもかかわらず、黒田寛一をこれほど絶賛するのは、何故か。実は、吉本隆明は、この頃から、大衆消費社会の出現という日本社会な構造変化を受け入れて、反体制的左翼思想家というイメージをかなぐり捨てて、マスコミやジャーナリズムに頻繁に登場するようになり、所謂、市民主義的な「
知の巨人」に変身(転向?)していきつつある時期だった。吉本隆明自身にも、そのことで若干の後ろめたさがあったのかもしれない。それに対して、反市民主義を吉本隆明よりも徹底して、マスコミにはほとんど登場せず、反社会的集団と見做されていた革マル派の活動に専心していたのが黒田寛一だった。スガ秀実は、この二人の微妙な違いについて、こう書いている。
《しかし、黒田・吉本論争においてそれ以上に重要なことは、六・四ストに対する知識人の応接ぶりこそが、黒田にとって、『急進的インテリゲンチャ』の自己破産を証明する出来事と見えたことである。そのことについて黒田は吉本とも共有する市民主義批判の、吉本以上の徹底化の帰結として言われている。》
《黒田=革マル派だけが「本気」だとう、冒頭で引用した八一年の吉本の発言は、黒田=革マル派だによるフェティシズム的な「労働の組織化」を目してのことかも知れない。事実、吉本−黒田論争の核心は、六十年安保のさなかになされた国鉄労働者を中心とする「六・四スト」の評価をめぐってなされたのである。》
「六・四スト」とは、一九六0年六月四日、総評指導部が国鉄労働者を軸にゼネラル・ストライキを指令した事件である。この事件を契機に、例えば丸山真男に代表されるような戦後派知識人たちがその欺瞞的な実像を暴露され、社会的影響を失って行った。彼等に代わって、黒田寛一の存在が浮上するのは、国鉄労働者を組織化し、その実質的な指導者が黒田寛一だからからだ。ここで問題になるのは、やはり黒田寛一の市民主義批判の徹底性だろう。