文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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日野日出志の「蔵六の奇病」とは何か?

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私はほとんど漫画を読まない。実は、子供の頃から私は漫画というものが苦手であった。したがって当然のことだが漫画家の名前も作品の名前も、日本人なら誰でも知っているような漫画家の名前は別だが、ほとんど知らない。たとえば、田河水泡長谷川町子手塚治虫赤塚不二夫、藤子不二夫、つげ義春などの名前は知っているが、彼らの作品を真剣に読んだことはない。むろん漫画を軽蔑しているからではない。漫画的思考を拒絶する何かが、私の内部にあるような気がするが、それが何であるのか、時々考えてみるのだが、真実は自分でもわからない。というわけで、日野日出志なんて漫画家の名前も、『蔵六の奇病』という作品も、つい最近まで、つまり日大芸術学部の清水教授に教えられるまで、まったく知らなかった。むろん、日野日出志は、平凡な漫画家ではなく、かなりマニヤックな「実存ホラー漫画家」(清水正)ということだから、私のような素人が知らなくて当然なのだろうが、しかし、私は、『蔵六の奇病』という日野日出志の代表作と言われている作品を読んで、ちょっとカルチャーショックを受けた。私は、そこに、「芸術とは何か」「芸術家とは何か」という芸術や文学の本質論とでも言うべき、言わば現代の純文学の世界から消失した重要な主題を発見したからである。この漫画は、「純粋な芸術家の運命」を描いているのだな、と思いつつ、私はかなり深刻な思いでこの漫画を読んだ。そして私は、いつのまにか、蔵六という主人公の運命に自分自身を重ね合わせていた。つまり、「蔵六は私である。」「蔵六の奇病は私の奇病である。」「蔵六を最後までかばい続けるこの母親は私の母親である。」という読みか方である。その私の読み方が漫画の読み方として正解なのか、あるいは誤読なのか知らないが、私は私なりの読み方をするしかない。そういう読み方をすると、不思議なことにこの漫画を、漫画的思考への抵抗や嫌悪を感じることもなく、素直に読むことが出来たのである。というわけで、以下に『蔵六の奇病』という漫画について、あくまでも漫画論、漫画研究の素人しての立場からきわめて個人的な解読のスケッチを試みることにする。ちなみに、この文章は、清水教授の「弟子」であり、私の若い友人でもある「猫蔵」君の処女作『日野日出志体験』という新著刊行にあわせて書かれたものである。私は、昨年、ドストエフスキー研究の大家・清水教授に、ドストエフスキーの奥義を窮めるつもりで酒の席で、酔いに任せて個人的に「弟子入り」(笑)したのだが、「猫蔵」君は、私よりちょっと前に清水教授に「弟子入り」した関係で、なんと、私の「兄弟子」ということになるのである。さて、『蔵六の奇病』は奇妙な漫画だ。蔵六という主人公は、百姓だが野良仕事はほとんどせずに「絵」ばかり描いている。「蔵六は小さい頃から頭が弱く、絵を描いたり、ぼんやりとおもいにふけったりしてくらしていた」。そのせいかどうか知らないが、最近は、蔵六の顔には「毒キノコのような七色のでき物」が噴出し、グロテスクな顔になりつつある。平凡な百章で働き者らしい兄からは、「このばかが、しごともせんと、また絵なんぞ描きくさりおって」「だから、そんな気味の悪いでき物なんぞこさえるんじゃい!」と、無能な怠け者扱いされ、「バカ」と軽蔑されているが、蔵六には「絵を描く」という大きな夢があり、大きな志があるから、兄からなんと言われようと、一言も口答えしない。しかし、蔵六はやがて村人たちからまでバカにされ、軽蔑され、排除されていく。「蔵六、ぼけなす、昼あんどん、もひとつおまけに昼あんどん」と、子供たちからも囃し立てられ、石を投げつけられ、石が顔にあたり血が噴出したこともある。しかし蔵六は黙って耐えている。やがて、蔵六の体に棲み付いた奇病は全身におよび、全身が腐乱化し悪臭を放ち始める。そしてついに、その悪臭と病気の伝染を恐れる村人たちから、村からの追放を宣告されることになる。母親は最後まで、蔵六を守ろうとするが守りきれない。蔵六は、村はずれにある不気味な「ねむり沼」という死臭が漂う「他界」へと追放される。しかし、誰も寄り付かないような恐ろしい生き地獄のような異空間だが、そこで蔵六は一心不乱に絵を描き続けるのだ。外部とのつながりは、毎日、蔵六の住む小屋に食べ物を届ける母親だけだ。絵を描けば描くほど蔵六の奇病はますます深化し、拡散し、その悪臭と異物性は村人を恐怖のどん底に突き落とし、村人の集団襲撃による「蔵六殺し」を誘発するほどになる。そして、やがて…。蔵六には静かな死が訪れる。さて、日野日出志が描く、この蔵六という不思議な主人公は、いったい何者なのか。そしてこの奇病=でき物とは? 私は、これこそ、まさしく純粋な芸術家、純粋な文学者の原像と言っていいだろうと思う。「絵を描く少年」「絵を描く病者」「死に追いやられる腐乱物質」としての蔵六は、文字通り、「絵描き」か「漫画家」(芸術家)を目指していた日野日出志自身の少年時代の自画像のデフォルメ化だろう。つまりこの漫画を、やや古典的な言葉で言い換えれば、私小説的に読んだ時、この漫画が、素直に読めることに私は気付いたのである。「純文学の恐ろしさ」とは、「作者の作中人物化」や「作中人物の作者化」を要求することである。日野日出志の他の漫画作品を私はまだ読んでいないが、しかし清水教授が、日野日出志を「実存的ホラー漫画家」と読んだ理由が、今の私にはわかるような気がする。蔵六とはまさしく日野日出志の実存そのものなのだ。蔵六の顔に噴出す「でき物」とは、共同体と対立し、やがて共同体から排除され、追放されるべき運命にある日野日出志の「芸術精神」とでも呼ぶべきものの象徴だろう。健全な一般市民社会(農村共同体)から見れば、芸術精神なんて、顔に吹き出た気味悪い「でき物」にほかならないのだ。蔵六が追放され、そこに住むことを強いられる「ねむり沼」という死の空間は、あるいは蔵六の身体に宿る「蔵六の奇病」の病巣とは、深読みすれば、ハイデガー的な意味での「存在論的空間」なのだろう。一流の芸術家も一流の思想家も、あるいは一流の政治家も、誰でも、心の奥深くに「ねむり沼」や「蔵六の奇病」を抱え込んでいるのだ。芸術家であれ思想家であれ、あるいは政治家であれ、「ねむり沼」や「蔵六の奇病」をその精神の内部に抱え込んでいないような人間は信用できない、と私は思う。ところで、わが「兄弟子」の「猫蔵」君にも「蔵六の奇病」は取り憑いているのだろうか。