文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「小沢一郎時代」が来るか?小沢一郎本を読みながら、武蔵浦和の居酒屋「リキ」でビールを……。


にほんブログ村 政治ブログへ←この記事にピーンときたら、ワン・クリック、お願いします!


久しぶりに、武蔵浦和の某本屋を散策し、さんざん立ち読みをした挙句、最後に小沢一郎に関する本を一冊だけ買い、それを読むために、いつもの通り、昼間から、焼き鳥屋「リキ」で、ガツ刺しをつまみにビールを飲んでいる。実は僕は、かなり昔から「小沢一郎」という、どちらかというと悪役タイプでコワモテな感じの剛碗政治家が好きだった。竹下派分裂騒動、自民党脱党の頃からである。小沢一郎なき自民党は、もはや自民党ではない、単なる「モヌケの殻」だ…、古き良き自民党の精神は小沢グループにあり(!!!)、というのがその頃からの僕の持論である。小泉・安倍政権なんて、自民党政権とは名ばかりで、その実態は、派手なパフォーマンスと人気取りに明け暮れる、大昔の「社会党」以下のポピュリズム政党にすぎない、馬鹿やマヌケばかりが大手を振って闊歩する、中身のない「モヌケの殻」政党の最たるものだろう、と。さて、小沢一郎が好きだ、と言っても、僕は小沢一郎のすべてが好きなわけではない。彼がよく口にする「真の政治改革」という言葉や、国連中心主義的な発言、あるいはしばしば見せる隠密行動的な怪しい動きなどにはいつも違和感を禁じえないのだが、それでも不思議な事に小沢一郎という政治家への期待は揺るがない。何故か。それは、僕が、小沢一郎という人間に、政策ではなく、政策を越えた「何か」を期待しているからだろうか。最近は、小沢一郎に対して、身の程をわきまえず、横柄で傲慢な対応や言動を繰り返すチンピラ政治家(河野太郎を筆頭に…)も、自民党だけではなく、民主党にさえ少なくないが、僕はそういうチンピラ政治家の軽薄な言動に接する度に、その政治家の、政治家としての無知と不見識に絶望的にならざるをえない。小沢一郎とお前等とでは、人間の器量というか、政治家としての器が根本的に違うだろう・・・・・・と思うからだ。彼らの言動に接するたびに、日本の政治家も、ここまで落ちてきたのか、と情けなく思う。それにしても、いつから、政治家の「人間力」より「政策」が優先されるようになったのだろうか。僕は、安倍シンパやネット右翼あたりが乱用する「国家観」とか「歴史観」とかいう、いかにめ軽薄な政治家や評論家等が好みそうな、薄っぺらな言葉が大嫌いだが、こういう言葉が乱用されるようになったのも、政治家に不可欠な「人間力」よりも、「政策」が過大評価されるようになったからだろう。誰でもが「馬鹿の一つ覚え」のように、ペラペラ語れるようなレベルの「政策」が信用できるわけがないにもかかわらず、「政策」さえ怒鳴り続けていれば、政治家稼業が勤まるという共同幻想が、政界やマスコミに蔓延しているわけだが、こういう幻想的妄想の蔓延と流行こそ現代日本政治の病根である、と言わなければなるまい。低学歴、且つ無知蒙昧なチンピラ政治家どもが永田町に溢れ、しかも総理大臣の椅子までがそういう軽い人物に占拠されるようになった原因もそこにある。本居宣長は、このことを、「意は似せやすく、姿は似せ難し」と言っているが、この場合、「意」とは政策であり、「姿」とは人間力である。僕は、これを、「イデオロギーから存在論へ」と言っている。ハイデガーの「存在論的差異」という哲学的議論もこれと無縁ではない。要するに、これは、どういうことかと言うと、政治家にとっては、安倍某のような脳味噌の軽いサルにも丸暗記出来るような政策なんてたいして重要なものではなく、いかなる危機にも動じない剛直な人間力こそ不可欠なのだ、ということだ。僕が、小沢一郎に期待する所以である。