文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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熱海MOA美術館でユトリロ展を見る。

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僕は、美術館というものがあまり好きではない。これまでに美術館で本当に感動した体験はない。いつも、見ることの苦痛と、主催者の傲慢さと独り善がりに怒りしか感じなかった。しかし今日はちょっと違っていた。かなり感動したと言っていい。こんな体験は、無論初めてであった。熱海MOA美術館はこれまでに、何回も行く機会があったがいつも敬遠していた。今日も気がすすまなかった。が、時間もあり、また熱心な人がいたし、ユトリロ展開催中ということだったので、見てみることにした。むろん何も期待していなかった。時間つぶし程度の気持ちで、出掛けた。が、熱海MOA美術館にも、ユトリロ展にも正直に言って感動した。こんなことは初めての経験だった。これが美術館というものか(!!!)、っていう感じだった。館内の設備も作品の展示の仕方も、むろん展示されている作品も名品揃いで素晴らしい。僕が、これまで美術館で感じていた苦痛と怒りの原因がわかったような気がする。美術館や主催者に、ポリシーと言うものがないのだ。今日の熱海MOA美術館のメイン・テーマは、「ユトリロー白の時代ー」展だった。「ユトリロー白の時代ー」展の作品の提供は、小野光太郎という実業家のコレクションかららしい。小野氏のコレクションのモットーは、「画家が成功して有名になり、裕福な生活が出来るようになった時代の作品は排除し、まだ画家として充分には認められず、貧乏生活を強いられる中で、ただひたすら書きつづけていた苦悩の時代の作品だけを徹底的に収集する…」ということだったらしい。これはすごい、と思う。僕が感動した根拠はここにありそうだ。やはり自腹を切って名画を収集する人間にはそれぐらいのポリシーが欲しい。さすがである。これは文学作品にも言えることだろう。僕が、初期作品やデビュー作にこだわる理由でもある。作家以前の作品にこそ、その作家の本質はすべて現れるからだ。「功なり名を遂げた」後の作品には形骸しか残らない。というわけで、「ユトリロ展」は「白の時代」となっているというわけだ。つまり、「白の時代」が、ユトリロの「画家以前の画家」時代を特徴付けるメイン・テーマらしい。「白」という絵の具の色にユトリロの苦悩が体現されている…。「白」という色も単純ではないのだ。実は、この美術館の主催者は「世界救世教」という宗教団体であるが、この宗教団体の現在の教祖は、僕の大学、大学院時代の同級生で、かつてはかなり親しくしていた友人である。その彼が、今、この宗教団体の教祖なのだ。いずれにしろ、美術館や展覧会というものにハマリそうだ。たまたま僕は、小林秀雄の『近代絵画』を読もうとしていたところだった。むろん偶然である。アッ、そう言えば、小林秀雄の母親は世界救世教、いわゆるメシア教の信者だった。






「郊外の道」



「モンマルトルのアプレヴォワール通り」