文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優と中島義道は、どちらが観念的か?

 さて、次に、この瀾ではすでに何回も取り上げているが、「文学界」に「私のマルクス」を連載している佐藤優について再度取り上げておこう.。池田晶子やスガ(糸ヘンに圭)秀実とともに、私が今もっとも関心を寄せている物書きだからだ.。実は、ご承知のように佐藤優は、同志社大学神学部出身の外交官である.。政治スキャンダルに巻きこまれた挙句、逮捕され、現在裁判中の身ではあるが、「文学界」の連載だけではなく、実に多角的に活発な言論活動を展開している. 。その活発な言論活動の背景には何が隠されているのだろうと、多くの人が関心を持っているはずだ。むろん、私も、佐藤優の、書けども書けども尽きることの無い豊饒な思想的土壌は、どのようにして形成され、どのような思想体験や人間関係の中で鍛えられてきたのだろうかと、関心を持っている.。沼野充義四方田犬彦の言論にはほとんど興味を持てないが、佐藤の言論には深い関心を持つ.。 今月号では、同志社大学時代の学内の政治運動体験を中心に書いているが、そこで佐藤優は、当時読んだマルクス主義関係の文献を紹介しつつ、広松渉広松渉の「ドイツ・イテオロギー」編纂問題などにまで言及している。佐藤優が、いかに深く、広く読書を続けていたかがよくわかる.。そこで私は、あらためて、「東大似非アカデミズム」と佐藤優を比較してみたくなる.。佐藤優とともに、中島義道が同じく「文学界」で、「観念的生活」という連載を続けている.ので、私は、ふと、どちらが観念的で哲学的かと考えてみる。残念ながら、大学の哲学担当教授で「哲学者」の中島義道の書くものには観念的で、哲学的なものはない。時々、教科書に書いてあるような哲学的な議論が展開されることはあるが、それは単なる茶飲み話の枠を出ていない.。つまりその哲学的議論に何らの思想的、体験的裏づけが感じられない.。要するにそれが「生きられた哲学」ではないということが一目瞭然である.。むろん、佐藤優の書くものはそういうものではない.。佐藤優の書くものは、話の中身がどんなに世俗的でも常に観念的で哲学的で本質的である.。それは、明らかに物を考えている人の文章である。私だけではなく、多くの編集者や読者が、沼野充義中島義道ではなく、「東大アカデミズム」とは無縁な池田晶子佐藤優に注目する所以だろう.。どちらがホンモノかは明らかである.。 同じことが小説にも言える.。小林信彦の『日本橋バビロン』(「文学界」)は、下町で商売をしていた一族の歴史を描いているが、ほぼ自慢話の羅列でつまらない。そこには批評性がない.。イジメやニートを批判するのではなく、内側から肯定的に描いて、前回の芥川賞候補にもなったきた田中慎弥の『不意の償い』(「新潮」)が、反社会的な文学的才能の開花を予感させる。

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