文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

佐藤優の『私のマルクス』を読む。

今、論壇や文壇、あるいはジャーナリズムで読むに値する実質のある文章を書いているのは佐藤優以外にはいない、と僕は思っている。佐藤のすごいところは、毎月毎月、方々の雑誌や新聞に多量の文章書き続け、短期間の間に数冊の本を出版してしまう、その旺盛な筆力だけではなく、書いても書いても中身が希薄になったり、二番煎じになったり、種が尽きたりということがないということだろう。これは、紛れもなく佐藤が、タダモノではないということだろう。しかも佐藤の場合、左翼・革新系の『世界』に連載を持つと同時に、保守・右翼系の『正論』や『文学界』『月刊日本』にまで連載を持ったり、要するに雑誌メディアの「思想性」や「政治性」「党派性」とは無縁に書き続けるという離れ業を演じられることだ。最近の物書きの大多数は、自分の「書きたいものを書く」というよりは、その雑誌の編集方針や注文依頼に添った原稿しか書かないし、また注文どおりの原稿しか書かしてもらえないという状況にある中で、佐藤のような、書きたいものを書き、そして左翼系からも右翼系からも原稿依頼があるという存在は貴重だと言わなければならない。つまり保守・右翼系の文藝春秋産経新聞からも、左翼系の岩波書店からも原稿依頼があるということは、佐藤の思考が、右翼・左翼的なイデオロギーのニ項対立的レベルを超えているということだろう。僕は、このことを「イデオロギーから存在論へ」と呼ぶが、佐藤の思想や思考は、まさしく左右のニ項対立的な思想的対立や政治的対立を超えて、左右をその根底において包括するような存在論的次元に到達していると考えていい。たとえば、今、佐藤は『文学界』に「私のマルクス」という連載を書き続けているが、これを読むと、佐藤が、高校生時代から積極的な左翼学生というスタンスでマルクスを読み、マルクスマルクス主義哲学に精通しているだけではなく、佐藤自身がかなり過激な左翼青年時代をすごしており、いわゆる左翼的な文献をほぼ読み尽くしているということがわかる。今月号の『文学界』には、マルクス主義哲学の研究者として世界的にも著名な広松渉マルクス論の中心的なテーマ、いわゆる『ドイツ・イデオロギー』編纂問題についても強い関心を持ち、なおかつ広松渉の晩年の大著『存在と意味』についても批判的ではあるが、かなり深い関心をもったいたことが書かれている。佐藤は、「ソ連・ロシア情報分析のプロ」としてマスコミに登場してきたわけだが、その思想的背景はかなり深いと見なければならない。大学でロシア語やロシア政治史を勉強したという程度の専門家とはレベルが違うのは言うまでもないだろう。そういう人が、一方では、大川周明や『神皇正統記』について書くのだから、その懐の深さには、一目おかざるをえない、と思うのは僕だけではないだろう。最近の保守論壇に蔓延する、いわゆるネット右翼的なレベルの保守理論や保守政策を、馬鹿の一つ覚えのように箇条書きするだけの保守思想家や、差別反対とか平和憲法を守れと騒いでいるだけの、小市民的な左翼思想家等とは、その思考する次元が根本的に違うのだ。(つづく)


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