文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大学生最後の授業の後で、学生たちと呑む。

昨日は日大芸術学部で今年最後の授業だった。後で四年生の一人から、なんと、僕の授業が「大学生最後の授業」となったと聞いた時にはびっくりした。金曜日の五限なので当然と言えば当然のことなのだが、その話にはやはり年甲斐も無く感激した。僕は、自分の大学生最後の授業などまったく記憶に無いが、しかし、やはり「大学生最後の授業」なんて、これから就職して社会人となる四年生にとつてはどうでもいい話ではないだろう。いずれ忘れることだったとしても……。特に、その話をしてくれたのが、ほとんど欠席も無く、熱心に僕の講義に耳を傾けてくれていた学生だつたので、僕は真面目に受け止めた。いい思い出になってくれると嬉しい。昨日は、四年生にとっては最後の授業ということを少し意識していたので、僕の好きな柄谷行人の「この私」(「探究」)理論の一部をコピーして渡し、それを読みながら、「私一般と『この私』は違うのだよ」と柄谷理論の要点を説明し、具体例として「この女」「この男」「この子供」「この犬」等の話を繰り返しながら、「交換不可能な単独者」の思想についてわかるように噛み砕いて講義した。たとえば、都知事石原慎太郎が、「戦争も辞さない」「国家のために命を賭けて戦うのが男だ」なんて勇ましい発言を繰り返し、おまけに「スパルタ教育」なんて本を書きながら、自分の「可愛い馬鹿息子」のことになると、デレデレになり、「断っておきますが私の息子は立派な画家ですよ。余人には代えがたい存在なのだよ。」と、我が子可愛さの余り、嘲笑と爆笑を覚悟の上で、堂々とノロケられるのは(笑)、まさしく石原慎太郎にとって、あの「凡庸な馬鹿息子」が、息子一般ではなく、「この息子」だからだ、そしてそんなみっともない親馬鹿と馬鹿息子を恥も外聞も無く演じられるのは、石原慎太郎が、「この私」に固執する作家だからだ。作家こそまさしく「この私」に執拗に拘る存在なのだ……という説明は大いに受けたようだった。後で簡単な感想を書いてもらったのだが、みんなよく理解しているようだつた。たとえば、「私は犬が大好きだが、私の好きなのは『私の、この犬』であって『犬一般』ではない。その証拠に、野良犬が処分されても私の心は痛まないだろう。」というような感想文もあった。授業の後で、居残った数名の学生達とささやかな呑み会をしたのだが、遅くまでビールで盛り上がりとても楽しい、充実した一日だった。学生達が、いろいろと質問してくれたり、議論を仕掛けてきたりするのは、教える側から見れば、話がある程度通じているということであり、やはりうれしい。僕は、「日芸」で教えるようになって三年目だが、やつと学生達と打ち解けて話が出来るようになったということだろう。







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