文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

モンテーニュ的非合理主義からデカルト的合理主義へ。


エコノミストだかコンサルタントだかしらないが、藤原某という怪しい人物の大胆な、というか荒唐無稽なというか、かなり際どい「郵貯200兆円」の米国債充当と、「小泉一兆円、竹中二兆円キックバック」発言が、波紋を呼んでいるらしい。僕も、面白いから好意的に(笑)、取り上げたのだが、それにすぐ反応してそんな話はデタラメだ、妄想だと(笑)、宝の山を掘り当てたかのように興奮して喚いていてるいる人たちがいる。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2006/10/post_af45.html


大胆、且つ荒唐無稽な陰謀論的な妄想発言を、合理的観点から見て、つまり落ちこぼれサラリーマン的な常識論で、「怪しい」と言って批判することは容易だが、そういう訳知り顔の愚鈍な凡人たちの常識論に、僕はあまり興味がない。むしろ、藤原某の怪しい発言の底に隠されているかもしれない奇怪な真実の方に僕は興味がある。


デカルト的な合理主義では捕らえられない怪しい真実というものがこの世には確実に存在するからである。言い換えれば、デカルト的合理主義哲学の確立とともに、何かが失われたということである。それは狂気であり、病人であり、犯罪者であり、性的異常者であり、誤解を恐れずに言えば、ホンモノの芸術家である。


つまりモンテーニュ的「エセー」がデカルト的な「哲学体系」に取って代わられたのが近代ヨーロッパであるが、その近代ヨーロッパが失ったものこそ、モンテーニュ的非合理主義であり、ニーチェ的な非合理主義であった。


僕の好きな言葉に、「科学で滅びないために芸術がある」というニーチェの言葉がある。つまり科学という、だれにでも理解できる常識論では捕らえられない人間的な真実というものがあり、それを捕らえるには、芸術的な、あるいは文学的な感受性が必要だということだ。


柄谷行人は『マルクスその可能性の中心』で、モンテーニュについて、こう書いている。

たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれは、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもいれば、ストア派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それはけっして混乱した印象を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからではなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして彼の思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。

ここで、柄谷行人が、何を言おうとしているかは明らかだろう。「どんな矛盾をもみようとする新たな眼」が、思想家や芸術家には不可欠だということだろう。間違いを恐れて、「正しい」ことしか言わない、訳知り顔の常識人に僕は興味がない。僕が関心を持つのは、常に、「間違っているかもしれない…」という危機的な場所で思考するモンテーニュ的、ニーチェ的な思想家であり芸術家である。


言うまでもなく、僕はアブナイ人間が好きである。たとえば、お上品だがインチキ臭い「ハンカチ王子」とかいうニセモノより、もろにインチキ臭い亀田兄弟に興味がある。亀田一家こそ、現代という時代を象徴するテクストであり、合理主義では理解不可能な何ものかを秘めている。間違いを恐れて、「正しい」ことしか言わない、訳知り顔の常識人に僕はなんの興味もない。僕は、最初から君等の仲間ではない。一緒にしないでくれ(笑)。ドストエフスキーがこんなこしとを言っている、『たとえそこに真理がないとしても、僕はキリストともにいたい…。』と。


したがって僕が願うのは、「モンテーニュ的非合理主義からデカルト的合理主義へ」という近代ヨーロッパ的な「世界史」の歴史哲学ではなく、「デカルト的合理主義からモンテーニュ的非合主義へ」遡行する「反世界史」の歴史哲学である。


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