文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

見沢知廉一周忌に参加。

見沢知廉(みさわ・ちれん)という作家がいた。僕は、九段会館で行われた三島由紀夫憂国忌で一度だけ会ったことがある。その時、かなり長時間、一対一で、政治や文学の話題から三島由紀夫等についてまでかなり深く話し込んだという思い出があるので、一度だけの出会いにもかかわらず、見沢知廉という作家には深い印象を持っている。


その前だったか後だったか忘れたが、見沢が「新潮」に発表して「三島由紀夫賞」候補にもなった「調律の帝国」に対する書評を、僕は産経新聞に書いている。したがってその出会いの後、見沢知廉という作家に改めて深い興味を持ったので、デビュー作の「天皇ごっこ」を初め、彼が書いた他の本も手当たり次第に探し出してきて読んだ。日本にもすごい作家がいるものだなーというのが僕の印象だった。


しかし、その後、秘かに期待していたのだが、マスコミに出る回数は減ったように思われた。文学的に行き詰っているのかな、と僕としてもちょっと心配しているところだった。


ところが、昨年、突然、高層マンションから落下し死亡したという情報が・・・。自殺ではないかとも言う。左翼過激派での体験から、やがて一転して右翼過激派での体験、そして、スパイ虐殺事件で刑務所生活十数年…と言う得意な体験を持つ稀有な作家として、僕も期待していたただけにその死には衝撃を受けた。


さて、早いものでもう一周忌だという。当然のことだが、「一隠れフアン」にすぎない僕は葬式にも追悼会等にも出席していない。しかし今回は、たまたま先々月、「一水会」フォーラムに講師として呼ばれ、そこで小泉政権批判の前に、ちょっと見沢知廉との思い出話をした関係で、「見沢知廉一周忌」と「見沢知廉よ、永遠なれ」というフアンや仲間が企画した記念パーティへの招待メールをいただいた。むろん、僕は喜んで参加させてもらうことにした。


一周忌法要の場所は文京区向丘の光源寺。僕には今まであまり縁のない街である。地図を見ると、この一帯は寺町であるらしく寺が密集しているようだ。だいたいの地理を確認してから、王子乗り換えて南北線へ、そして本駒込で降りた。途方にくれるところだったが、駅の出口に「見沢知廉一周忌」と書かれた紙を胸に持っている青年が立っていた。この青年がいなければとても目的地に到達することはなかっただろう。


光源寺は、工事中で足場は悪かったが、こじんまりとしているが、なかなかいい感じの寺だった。読経の後は、裏の墓地へ。


東京の寺での一周忌法要は、初めての経験である。住職の話では、住職の弟と見沢知廉は裏にある幼稚園で同級生だったとか。


焼香の列に並んでいる時、出席者の中に「新潮」元編集長の坂本忠雄氏を発見して驚く。坂本さんも途中で僕のことに気がついたらしく、簡単に手を上げて会釈してくれた。しかしよく考えてみると驚くべきことではない。「調律の帝国」等の名作が次々と「新潮」に掲載されたのは、坂本編集長時代のことだったはずだからだ。


二次会(記念パーティ)の場所は水道橋だったので、神田の古書店に立ち寄ってから行くという坂本さんと飯田橋まで御一緒させてもらう。坂本さんは相変わらず鋭い舌鋒で、「最近の文芸誌は面白くないねー」「批評家が大人しいんだよねー」「そこへ行くと江藤君なんてすごかったねー、蛮勇を発揮していたものねー」とまくし立てる。


僕もつられて、「最近の文芸誌には論争がありませんから…」と相槌を打つ。「ところで君は、今、何を書いているの?」と聞かれて絶句…(笑)。「『月刊日本』という雑誌で『文藝時評』をやってます」と答えながら、冷汗をふく。


2次会はちょっと不思議な会だった。貸し会議室を使った手作りの会だったが、実に心のこもったものだった。僕はその席で、雨宮かりんさんや切通理作さんたちの存在にはじめて気がついた。一度しか会ったことのない僕などと違って、見沢知廉とはそれぞれ長い付き合いで、深い関係の人たちのようだ。この2次会のパーティも彼等を中心にした「実行委員会」が企画したものらしい。


坂本さんの挨拶でパーティは始まったが、僕も最後の方で指名されたので、簡単な思い出話をした。その話の中で、僕は、見沢知廉の文学で、一番印象的だったのは、獄中で息子が密かに書き綴った作品原稿を、看守の眼を盗んで母親が持ち出し、それを清書し、文芸誌(「新日本文学」)に投稿、そして新人賞を受賞した、と言う「母と子の涙ぐましい愛の物語」だと話した。そして「僕も親不孝を重ねてきたが、見沢知廉には負けます。」と。


むろん、これは、僕が最初から持ちつづけている、見沢知廉という作家に対する正直な感想である。見沢の文学は、この母親の溺愛と無償の愛なくしては存在し得ない文学だろう。というわけで、帰ろうとして出口にいる「お母さん」に会釈して立ち去ろうとすると、突然、「いい話を有難うございました。」と言われたので驚いたり嬉しくなったり。


ところで僕は知らなかったのだが、見沢知廉の作品は、没後も「作品社」などから続々と出版されているらしい。死後、たちまち忘れ去られる作家が多い中で、これは珍しい。「死後、成長する作家」なのだろう。


また見沢知廉で忘れてならないのは、会場で初めて気がついたのだが、雨宮さんをはじめとして、熱狂的な女性フアンが多いらしいことだ。そう言えば、僕が会った頃も、やややつれ気味ではあったが、まだまだ「美少年」の面影を残していたなー、と思い出したのであった。言うなれば、現代の「沖田宗司」か。いずれにしろ女性が見逃すはずがない、ということだろう。見沢文学の人気が爆発する日は近いかもしれない。
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文京区向丘ー光源寺にて。
(挨拶するのは「一水会」の木村三浩氏)


見沢知廉について・・・。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/misawa/profile.html


生年月日
1959年(昭和34年)8月23日。獅子座。
血液型
温和なA型
出身地
東京都文京区「文学の街」千駄木の旧鴎外宅と旧漱石宅のちょうど中間。
学歴
早稲田中学、早稲田高校から定時制高校を経て、中央大学法学部中途除籍。現在、慶應大学文学部に在籍中。
趣味
切手(ナチ関係など)収集、オーディオ、フィギュア、占い、空手、パソコン、モバイル、カメラ、ビデオ、風水、オカルティズム、音楽や映画鑑賞、短歌等多岐に亘る。
賞 90年 コスモス文学賞受賞
91年〜92年 全作家賞特別賞
94年 小説新潮短歌入選
94年 新日本文学賞受賞
98年 芥川賞と並ぶ三島由紀夫賞最終エントリー

家族・・・
父は元PX、芸能プロダクション経営、アニメのルパン三世他音楽制作、母は満州生まれのホームヘルパー、父方祖母は新潟出で助産婦、看護婦長、保健所医師会役員、詩吟師範、日本赤十字銀賞、父方祖父は岡山出で戦前のリベラル報知新聞社会部記者、母方祖父は早大出で満鉄、英仏留学高官へ満州事業と商業他、母方祖母は清和源氏大和源氏清和天皇から出て、のみが征夷大将軍になれる、源頼朝義経、足利、新田、木曽他)、系の信長、信雄、秀吉につかえ関ケ原で敗北、幕末四十七士の文武両道俳人の大高源吾の子孫をムコ養子に、類系から大正天皇の乳母を出す。とメチャクチャ(笑)。文壇バーの風花で女優の村井志摩子が一目見て「あんた、濃い血ね、若けりゃくどいたわよ(笑)」、ただ2ちゃんねるにあるように、オーラはあるよう。

小学時代・・・
ボーイスカウトクラリネット、フルート、絵画、習字などの習い事などをしつつ、ガキ大将。小学4年より、中学受験へ向けて、日進、四谷大塚などの進学塾へ通い、家庭教師が2人つく受験まっしぐら体勢へ。
中学時代・・・
中学3年のとき、友人に誘われ既成右翼の活動を手伝うが、失望。非行に走り反体制への共鳴から暴走族へ参加。
高校時代・・・
高校2年でブント戦旗派の学生同盟員になり、同中級幹部に。成田管制塔事件などの実力ゲリラ闘争に参加。一方では、高校2年から小説を書き始めて、78年より純文学の新人賞へ投稿し始める。
そして・・・
82年秋、イギリス大使館への火炎瓶ゲリラやスパイ粛清事件等で、政治犯として捕縛される。その後、東京拘置所、川越少年刑務所、千葉刑務所などに12年間収監。獄中でも反体制の姿勢を貫き、後半8年半は昼夜独房に幽閉される。
原則禁止の小説を獄中でも書き続け、コスモス賞や全作家賞などを穫り、長く同人誌で活躍したのち、幾つかのメジャー新人賞の予選や朝日文学賞などの最終候補に残り、出獄直前の94年10月、獄中で書いた小説『天皇ごっこ』で第25回新日本文学賞を受賞。
同年12月8日、満期出所。95年11月25日『天皇ごっこ』を出版、96年2月に出版した第2作の『囚人狂時代』が8万5000部のベストセラーとなり、一躍マスコミの寵児となる。97年7月『獄の息子は発狂寸前』出版。97年6月に「新潮」巻頭発表、同12月8日に出版された小説『調律の帝国』は第11回三島由起夫賞候補に選ばれるが、惜しくも受賞を逃す。
また、サブカルチャー評論家としても活躍し、別冊やムック、共著本は20数冊を数える。雑誌「週刊プレイボーイ」、「テアトロ」、「創」、「宝島」、「GON!」、BUBKA」、「BURST」、「ワッフル」等に連載ページを持つ。また、TV番組「朝まで生テレビ」、トークライブハウス「ロフトプラスワン」などでも論客として活躍している。出所して一時期は複数の民族派団体のリーダーをつとめたが、現在は政治休養宣言をして、文学中心の創作に専念している。独身。

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