文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小泉・竹中改革の「貧困の哲学」・・・・「歳出削減」と「大増税」しかない。


小泉改造内閣は、財政赤字解消を目指して財務省主導で大増税路線を突進中と思いきや、なんとあの竹中平蔵総務大臣を筆頭に、「増税より歳出削減が先だ…」というキャンペーンを張り出した。私に言わせれば、小泉・小泉・竹中改革においては歳出カットと大増税は決して対立するものではない。


当然のことだが、大増税を回避すれば、すくなくとも小泉内閣では、ますます財政赤字解消など不可能だろう。歳出カットだけで財政再建が可能だと考えている人は一人もいないだろう。とすれば、「反増税キャンペーン」は、単なる来るべき大増税のための準備作業、あるいは国民向けの情報操作(地ならし)にすぎないのか。おそらくそうに違いない。


増税より歳出カットが先だ…」と叫びつつ、その裏で「大増税もやむなし」という方向へマスコミや国民を誘導していくのだろう。もしそうだとすれば、それはまぎれもなく、小泉・竹中改革が失敗し破綻したことの証明になるはずだが…。しかし、マスコミには、これからは、「小泉改革の総仕上げ…」などというピントはずれの妄言が飛び交っている。そもそも小泉・竹中改革が成功し、「これから最後の仕上げだ」と言うならば、景気回復による税収が増え、大増税など必要ないはずではないか。


なぜ、大増税が必要なのか。それは、小泉・竹中改革で、財政赤字が減少するどころか、ますます拡大しているからである。ちなみに、もし歳出削減や公務員削減を強行すれば、目論見とは逆にますます財政赤字は拡大するだろう。では、問題は、どこにあるか。それは、マスコミに蔓延している小泉・竹中改革は、「財政出動なき景気回復」に成功したという間違った小泉構造改革賛美論にある。



はたして日本経済は、小泉構造改革の成果によって、今までに例のない「財政出動なき景気回復」にたどり着いたのか。不思議なのは、小泉・竹中一派は、株価が下がると「株価の下落に一喜一憂せずと株価の下落は構造改革とは無縁だと言いながら、株価が上昇し景気回復の兆しが見え始めると、いとも簡単に前言を翻し、「株価上昇も景気回復も小泉構造改革の成果だ…」と言いはじめる事である。


むろん、政治家の発言なんてそんなものでもかまわないが、経済学者や経済ジャーナリストまでがそれに一斉に唱和することである。あげくのはてには、「財政出動による景気回復」を唱えていたケインズ派経済学者たちに向かって、「すでに財政出動なき小泉改革の結果は出ているではないか、なんと抗弁するのか、その言い訳が聞きたい」とのたまう経済ジャーナリストまで現れる始末だ。喜劇と言うしかない。



今や歳出削減と大増税しかありえない状況に追い込まれつつある竹中の経済学は、経済学的パラドックスと言うものが理解できない経済学である。竹中の頭にあるのは、足したり引いたりするしか能のない経済学である。少なくともマルクスケインズが、「経済学」ではなく「経済学批判」で明らかにしようとした問題は、そういう「個人家計」レベルの竹中式「節約と貯金の経済学」の問題ではない。


20世紀最大の哲学者と言われるハイデッガーは、「存在的(オンティシュ)思考」と「存在論的(オントロギッシュ)思考」を区別したが、マルクスケインズが、「経済学批判」において展開した思考は後者に属するものだった。


「存在的思考」が日常的、常識的、科学主義的思考だとすれば、「存在論的思考」は、非日常的、神秘的、芸術的、誤解を恐れずに言えば宗教的思考であった。むろん、存在論的思考の上に成り立っているのが存在的思考である。このハイデッガー的な「存在論的差異」が理解できるかどうかは、知識や体験の問題ではなく、センスや才能の問題である。


マルクスケインズには、そういうセンスと才能があった。彼等が提起した問題は、われわれの常識や世界観と対立するかもしれない。だが、彼等の思考の成果は、われわれに見えない「深い真実」を伝えている。古典と言われる所以である。


しかるに、現代日本の政治・経済界に蔓延している思考は、通俗科学的、常識的、大衆小説的な思考である。「存在論的思考」など、反科学的で無用のものだと思っている。小泉が、大衆歴史小説の愛読者であることは、それを象徴している。竹中は…。言わぬが花というものだろう。


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