文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

日本国民は小泉純一郎一家ほど軽薄でも不幸でもない。


僕は、小泉純一郎という男を一度だけ、身近で見たことがある。江藤淳先生の「お通夜」の席であった。すでに10年ぐらい前になるだろうか。鎌倉の葬儀場に、堂々と遅れて来た(笑)小泉純一郎は、すでに着席していた橋本龍太郎元首相等の隣の、一番前の席に座った。僕はその2、3列後ろに座っていた。橋本らが神妙な顔で前方を見つめていたのに対して、この男は、例のとおりニヤニヤ、ソワソワしながら、始終、キョロキョロ周りを見回し、後ろへ顔を向けていた。しばらくすると橋本が小泉の袖を引っ張ったように見えた。「ちゃんと前を見ていろよ…。不謹慎だろう…」とでも注意したのだろう。その日、江藤家の遺族席には、小和田外務次官の顔も見えていた。江藤淳に可愛がられていた政治家・小沢一郎はその席にはいなかったと思う。小沢は翌日の葬儀に出席したはずである。いずれにしろ、僕は、この時、この男はダメダと思った。失望したと言っていい。葬儀の席でもニヤニヤ、ヘラヘラ笑っているような男だから、世の中を甘く見ているのだろう。小泉純一郎の悲劇と喜劇を考える時、その家族関係は看過できない問題だろうが、実は、小泉純一郎の父親「小泉純也」は、僕の高校の先輩に当たる。僕が高校生だった頃、小泉純也氏は防衛大臣になったと思う。校内放送でそのことが放送されたように記憶している。「わが高校の先輩に当たる○○氏が防衛大臣に就任しました…」とかなんとか。小泉純也氏は、鹿児島県の薩摩半島の端っこにある「万世町」の出身であるが、その後横須賀の小泉家へ養子に行っているので、防衛大臣になったとはいえ、鹿児島とはあまり縁がない。その頃、小泉純一郎は慶応大学の学生だったのだろう。奇しくも、僕もその直後、慶應に進学し、小泉純一郎の後輩になるわけだが…。いずれにしろ、小泉純一郎という政治家は、政治家の中では、長い間、僕にとってはかなり身近な存在であったのだ。たとえば、小泉純一郎の「靖国参拝問題」も、実は亡父系祖先(鹿児島県「万世町」)の墓参りの途中で、僕の生家の隣町「知覧町」の「特攻記念館」を見学したことに始まる。まだ首相に就任する前で、どちらかと言えば失意の時代のことである。小泉純一郎は、この直後、森内閣崩壊の後、急遽、総理総裁に就任する。先祖への墓参りの効果だろうか…。さて、小泉純一郎の政策や政治的言動の多くは「思いつき…」「口から出まかせ…」「行き当たりばったり…」がほとんどだが、「靖国参拝」も例外ではない。特攻記念館で感激して、突然、靖国参拝に目覚めたのだろう。小泉純一郎には気の毒だが、こういう「軽薄」な「調子モノ」が日本の政界から自滅して消えていくことは、日本国民にとってはまことに喜ばしい。昨夜の記者会見では、例によって落ち窪んだ深刻・悲壮な目をしばたかせながら、不幸を一身に背負い込んだような口振りで、「最後の悪足掻き」に終始していたが、日本も日本国民も、小泉純一郎ほど不幸ではないし、深刻・悲壮でもない。自殺願望・自滅願望の病気に取付かれた病人は、小泉純一郎一人である。願わくば、日本や日本国民を、その自殺劇、自滅劇の巻き添えにしないでもらいたい。巻き添えにするのは飯島秘書官、竹中平蔵猪瀬直樹山本一太ぐらいにしてもらいたい…(笑)。日本国民は、小泉一家ほど「怨念」に取り付かれている訳でもないし、深刻でも不幸でもない。






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