文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

次の犠牲者は誰か????・・・・・小泉・公安政治の終焉

*1123024434*小泉純一郎は総理の器ではなかった。ただ、それだけのこと…。

 小泉内閣発足直後は小泉批判や小泉構造改革批判はかなり激しいものだった。特に論壇や政治ジャーナリズムでの小泉人気は決して高いものではなかった。むろん、緊縮財政で財政再建を目指す小泉構造改革路線そのものに対しても懐疑的な意見が多かった。その小泉内閣批判が頂点に達したのが、拉致問題での突然の訪朝(北朝鮮…)の頃であり、あるいは田中真紀子外務大臣更迭騒動の頃であった。しかし、自民党代議士・鈴木宗男議員辞職に追い込まれたあげく逮捕され、社民党代議士・辻元清美がこれまた逮捕・議員辞職に追い込まれ、一方では小泉内閣産みの親とも言うべき田中真紀子までもが外務大臣更迭のあげく、公設秘書疑惑で離党にまで追い込まれ…というような、どう見ても小泉純一郎という政治家の人格を疑わせるような「隠微な公安政治」が露骨になるにつれて、誰もモノを言わなくなってきた。この頃から急速に、小泉内閣に批判的だった政治家もマスコミも学者達も揃って口を閉ざし始めた。それに代わって登場してきたのが、御用政治家と御用マスコミ、御用ジャーナリスト、御用学者、御用財界人たちであった。テレビを見ても新聞を読んでも、小泉改革に批判的な意見はほとんど消滅し、小泉改革に頑強に反対する亀井静香代議士や平沼赳夫代議士らは、悪徳代官か国賊扱いされる始末である。ところが、郵政民営化法案をめぐる攻防の中で、再び、三度び、またまた小泉内閣の政治危機があらわになってきたわけだが、そこで顕著になってきたことの一つは、驚くべきことに、小泉改革と言われる構造改革論そのものに対する批判や懐疑の声が政界やマスコミにまったくなくなっているらしいという現実であった。「郵政民営化法案否決は小泉改革を後戻りさせる…」という論調が、政界やマスコミで、自明の真理のごとく主張されている。いったい、小泉改革構造改革に対する批判や懐疑の声はどこへ行ってしまったのか。不思議である。政治家生命を賭け、不退転の決意で郵政民営化法案に反対する綿貫・亀井・平沼…各氏らの政治活動が、あたかも私利私欲、党利党略、派利派略レベルの低次元の政治活動でしかないかのように語られる。これまた不思議な話である。なぜ、郵政民営化法案批判や道路公団民営化批判などが、国家戦略や政治心情、政策にかかわる政治論争であり、政策論争であると見做されないのか。小泉総理自身が、「郵政民営化法案批判は、小泉内閣に対する倒閣運動であり、小泉降ろしである…」と興奮して、言葉を荒げている始末である。小泉純一郎は、何を勘違いしていてるのだろうか。そもそも「倒閣運動」や「小泉降ろし」が、なぜ、悪いのか。雑誌や新聞もろくに読まないと言う小泉自身が、「小泉改革に間違いはない…」と盲信するのはかまわない。しかし、日本国民が全員一致して、小泉改革とやらを、「絶対に正しいのだと盲信しなければならない…」という論理は当然のことだが、なりたたない。そういう論理が成り立つのは北朝鮮の政治ぐらいである。小泉改革に反対し、「小泉内閣打倒」を政治的に主張する人やグループがいて当然ではないか。それこそ民主政治ではないのか。小泉の最近の言説は、「小泉改革を批判するものは非国民である…」という論理に酷似している。小泉改革の当否はともかくとして、小泉の言説は「狂っている」としか思えない。小泉が、キム・ジョイルと嬉嬉として握手し抱擁する理由がわかるような気がする。さて、冗談はさておき、小泉政権が続く限り、逮捕者や自殺者は増えるだけだろう。そこで、小生は次の犠牲者について考えて見たいと思ったわけだが、その答えは意外に簡単に見つかった。次の犠牲者は、おそらく小泉自身だろうということだ。亡命か刑務所か自殺か…(笑)。小泉は、盗作作家・池宮彰一郎の通俗大衆小説を読みすぎたせいか、この政局でも、自分を織田信長に擬した上で、「明智光秀は誰か?」と疑心暗鬼になっているらしいが、別に深く考える必要はない。言うまでもなく、「明智光秀小泉純一郎自身である」。