テレビは、なぜ、「人質三人組」の蛮行を批判できないのか?
批評とエッセイの違いについて考える。
実は、今、久しぶりに「爆笑問題」の司会するTBSの討論番組を見ている。いわゆる「イラク人質解放問題」に関する番組のようだ。冒頭で、太田光が「高遠・妹」の頭は短すぎる、何故だと……きついコメントをして始まったが、討論は「反政府」「人質三人組擁護論」の線で統一されていく。三人組とその家族へのバッシングが続いていると報告(石原慎太郎等を引用)した後で、テリー伊藤がいち早く親イラク的発言を繰り返す。番組の空気(シナリオ)を察知し、反政府的方向へ先導していこうとしている。大林とかいうジャーナリストや軍事ジャーナリスト、神奈川県選出の衆議院議員……も、揃って「自衛隊派遣」こそがそものそもの根本原因だと言う。
僕は、それを批判するつもりはない。ただここで考える、三人組に対する批判が、なぜテレビでは封印されるのか、と。むろん、それは番組の暗黙のシナリオなのだ。
批評家ならここで自分の意見を言うだろう。しかしエッセイストやコラムニストは自分の意見より番組の空気を読むことを優先する。むろん、それが悪いというつもりはない。むしろその場の空気を読めずに場違いな発言をすることこそ愚かな行為だろう。妥協するところは妥協した上で、間接的にタイミングを見計らって自分の意見をこっそり言う、というのが利口な戦略だ。そういう駆け引きの出来ない直情径行型の人間はエッセイストやコラムニストの資格がない。
自分の持論を一方的に主張すればいいというものではない。肝腎な問題を回避し妥協しつつ、自分のポジションを確保する。そこにエッセイストやコラムニストの芸がある。
批評や哲学というものはエッセイやコラムではない。番組の空気そのものを暴露し、それを批判して行くものではなかろうか。だから当然、テレビ番組のような「擬似イベント」に自足することはできない。
たとえば、モンテーニュは、宗教改革運動が活発化しプロテスタントが勃興しつつあった、いわゆる宗教戦争の時代の人であった。カトリックかプロテスタントか、誰もが何らか宗教的立場を鮮明にしなければならない時代であった。そういう時代に現役を引退し隠棲したモンテーニュは態度決定を曖昧にしたまま、「第三者」として発言した。それがモンテーニュの『エッセー』だった。
エッセイスト・モンテーニュは、デカルトやパスカルとは違うのである。