高倉健と原節子の暗い過去を語れ!ヤクザ映画とナチス映画の過去を語れ!
先日、佐藤優氏に教えて貰ったことだが、二人の大スターには、あまり語られることのない「暗い過去」がある。『山口組三代目襲名』というヤクザ映画と『新しい土』というナチス=ファシズム映画への出演という過去である。しかし、現代の日本人は、それを語ろうとしない。無かったことにしようとしている。
たとえば、蓮實重彦は、「原節子追悼文」(文学界2月号)で、「新しい土」を、駄作と一言で切り捨てている。いかにも、ポスト・モダン的な表層批評家・蓮實重彦らしい。ポスト・モダンとは、「大事なこと」を無視する技法である。蓮實重彦は、一貫してそういう批評を展開してきた。現代日本の思想的劣化と批評喪失、そして文化や芸術、芸能・・・がつまらなくなったのは、そこに大きな原因がある。
高倉健の代表作は、『幸せの黄色いハンカチ』ではないだろう。高倉健の代表作は、ヤクザ映画であり、『三代目襲名』である。同じように、原節子の初期の代表作は、日独合作の国策映画『新しい土』である。だが、蓮實重彦は、『新しい土』を駄作と切り捨てるだけで、一言もそれが、ヒトラーやゲッペルスの息の掛かった国策映画だということを語らない。「新しい土」が、満洲の大地を暗示していることを語らない。
暗い歴史を無かったことにしたいのだろう。そのための便利な批評方法が、ポスト・モダン的な表層批評だったのだろう。左翼文化人たちは、「大きな問題」を無視して「小さい問題」に耽溺する。そして左翼論壇やアカデミズムは、思想的に劣化し、地盤沈下し、誰からも相手にされなくなる。左翼論壇やアカデミズム、そしてポスト・モダン派が無視した「大問題」に、積極的に取り組んだのが「ネット右翼」と「エセ保守論壇」だった。
学問的水準が高かろうと低かろうと、「ネット右翼」や「エセ保守」の時代が続いたことは、当然のことだったと言わなければならない。「ネット右翼」も「エセ保守」も、今、曲がり角に来ているが、左翼論壇やポスト・モダン派が、それに取って代わると思えない。