文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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柄谷行人とポスト・モダン。


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柄谷行人は、『世界史の構造』で、理論化=体系化の仕事に熱中している。明らかに、「前期柄谷行人」のポスト・モダン的、脱構築的思考の哲学(断片の哲学)からの転向である。何故、柄谷行人は、「体系化の哲学」へ転向したのか? 何故、ポスト・モダン的思考と訣別したのか?


柄谷行人は、この転向について、『世界史の構造』で、こう書いている。

「したがって、「世界史の構造」を考えるにあたって、私は自身の理論的体系を創る必要を感じた。これまで私は体系的な仕事を嫌っていたし、また苦手でもあった。だが、今回、生涯で初めて、理論的体系を創ろうとしたのである。私が取り組んだのは、体系的であるほかに語りえない問題であったからだ。」(『世界史の構造』Pviii)

柄谷行人が「理論的体系化」を意識し始めたのは、私の考えでは、「柄谷行人とポスト・モダン」の関係からであると思う。柄谷行人は、自分の仕事がポスト・モダン思想とともに消滅し、忘れられていくのではないかという危機を感じ始めたのであろう。柄谷行人とポスト・モダンは決定的に異なる。しかし、柄谷行人自身はともかくとして、多くの人が、柄谷行人の仕事を、ポスト・モダン的な「小さな物語」と混同していることも確かだ。たとえば浅田彰等と同類と思う人は少なくない。柄谷行人は、ポスト・モダン思想の尻尾を切り捨てようとしているのだ。


最近の柄谷行人は、明らかにポスト・モダン的思考を批判的に乗り越えるべく、体系化、理論化の方向を目指している。『トランスクリテイーク』あたりから、その傾向は強い。そして『世界史の構造』で、それは明確になった。柄谷行人は、そこで、世界史を、「交換様式」の変遷の歴史として捉え、理想社会としての「世界共和国(Dの世界)」の構想を語り始めた。一見、目的論的思考のように見える。私は、柄谷行人を、イデオロギー次元で読んでいないの、柄谷行人の「ポスト・モダン的思考から体系的思考へ」の転向に、別に違和感はないが、しかし、もう一つの別の問題を指摘したくなる。


柄谷行人は、現在の思想状況、ポスト・モダン的思想状況の蔓延に責任があるということだ。私の考えでは、「蓮實重彦柄谷行人の時代」があったが、それは、言い換えると、ポスト・モダン思想と東大中心主義思想の蔓延化の時代だった。現在の文芸雑誌の有り様を見るまでもない。文芸雑誌は、「江藤淳吉本隆明の時代」の終焉とともに、大学の「紀要雑誌」に堕落し、その結果、「文芸評論家」という人種が排除され、「大学教授」や「大学助教授」の作文が氾濫する。そして、文芸雑誌から読者が去り、つまらなくなり、文芸雑誌の地盤沈下だけでなく、文学そのものの地盤沈下につながった。


私は、その反動として、反知性主義的な「ネット右翼」が台頭し、論壇やジャーナリズムを席巻することになり、現在に至る、と考える。言い換えると、ニセモンとしての「ポスト・モダン思想」や「東大中心主義思想」が、文芸雑誌やアカデミズムで蔓延すると同時に、反知性主義的ではあるが、明らかにホンモノである「ネット右翼」という思想運動が、大衆運動として台頭して来たということである。「ネット右翼」も「ネット右翼」的な反知性主義的思考も、どんなに幼稚・稚拙であろうともニセモノではない。明らかにホンモノである。それ故に、その基盤は強いのである。


大衆的、土着的風土の中から生まれてきた廣松渉の「革命」の哲学が、「東大中心主義的権威主義」に回収されて、「革命」の大衆性とエネルギーを喪失していったように、柄谷行人の一連の哲学的試みも、どれだけそれを批判しようとも、「東大中心主義的権威主義」という学歴主義的知性主義に裏打ちされていたということが出来る。江藤淳吉本隆明が、「蓮實重彦柄谷行人」を、「知的すぎる」「批評は知的なものではない」と批判したのは、そのこと(「東大中心主義的権威主義」)だったはずだ。


柄谷行人が、今、体系化、理論化の方向へ、思考を転換させたとするなら、それは、「江藤淳吉本隆明」が持っていたものへ回帰しようとしているということが言えるかもしれない。柄谷行人は 、ポスト・モダン派の蓮實重彦浅田彰等と連携することによって、江藤淳的、吉本隆明的世界を葬送することが出来たが、しかし、晩年を迎えるにつれて、不安と焦りを感じ始めたのではなかろうか?それが、ポスト・モダン派から体系的、理論的思考への転向の意味ではないのか。


しかし、私は、柄谷行人の思考が「ポスト・モダン」だったともポスト・モダン的」だったとも思はない。一見する、そう見えたとしても、柄谷行人は、浅田彰のようなポスト・モダン思想の持ち主とは決定的に違っていた。廣松渉との対談で、柄谷行人は、こう言っている。

『ぼくの偏見では、西田幾多郎を例外にすると、日本の哲学はむしろ文芸批評家にあったのではないかと思うのです。西欧ではけっしてそうではない。哲学者の方がすぐれた批評家だったといってよいかもしれません。たとえば、ニーチェは、「真理によって破滅しないために、われわれは芸術をもっている」といっている。ぼくは自分の仕事を、その対象がどんなものだとしても、文芸批評の延長として考えています。実際また、マルクスについて考えることについて考えることにおいても、ぼくは批評家から学んできたのです。』


柄谷行人が、マルクスについて、「文芸評論家」とか「批評家」から学んだというのは嘘ではない。柄谷行人は、「群像新人賞」を受賞して」「文芸評論家」としてデビューした時から、小林秀雄江藤淳吉本隆明等、いわゆる先行する「文芸評論家たち」の影響下にあった。その意味で、柄谷行人マルクス論は、あくまでも文芸評論家=柄谷行人の「文芸評論家的なマルクス論」であった。ここが、いわゆるポスト・モダン思想の持ち主(蓮實重彦浅田彰・・・)たちや、柄谷行人を信奉する柄谷行人エピゴーネンたちとは、決定的に違っている。


柄谷行人は、江藤淳吉本隆明を批判し、蓮實重彦浅田彰等と同じようにポスト・モダン派の先導者を気取ることによって、江藤淳吉本隆明の時代を乗り超え、「一時代(柄谷行人時代)」を形成することに成功したが、それは、柄谷行人本来の思想ではなかった。柄谷行人は、今、あらためてポスト・モダン的な思想を批判し、否定しさる必要があった。

(続く)




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