文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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小林秀雄は、満洲で何を見たか?

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のらくろ総攻撃』の翌年の昭和13年小林秀雄は、友人の彫刻家・岡田春吉とともに、満洲国からの招待旅行へ出かけた。その旅行記が「満洲の印象」である。しかし、小林秀雄満洲旅行記は、普通の旅行記とは少し異なっている。冒頭から、一貫して、悲観的で、暗く陰鬱である。

内地の内原の訓練所の事は、林房雄君が、いつか文藝春秋誌上に書いてゐて、その希望と理想とに燃えた楽しげな訓練所の有様は、僕は読んで知っていた。孫呉の雪野原には、未来の夢を満載した16から18の少年の千四百名余りの一団が、昭和13年5月、内原から到着して、満洲ではじめての冬の経験をしてゐる。
(小林秀雄満洲の印象」)

満洲孫呉の「満洲少年義勇軍」兵舎で、何が起きていたか? 小林秀雄が目の前に見たのは、「満洲少年義勇軍」の理想や夢とは懸け離れた、余りにも悲惨な現実だった。小林秀雄は絶句するだけだった。


特に孫呉の「少年義勇軍」を訪問した時の記録は暗く陰鬱である。『のらくろ』が、高らかに満洲への夢と希望を描いた翌年、早くも、現地を訪れた小林秀雄の眼には、その後の満洲の歴史を暗示するかのように、理想と現実のギャップは明らかだった。


小林秀雄の言葉に「見える人には見えるだろう」というものがあるが、見者(ヴォアイイアン)・小林秀雄の眼に、いったい、何が見えたのであろうか?「存在と虚無の深淵」が見えたのではないか?

トラックは無人の野を、10キロも快走したらうか、やがて訓練所の本部に着いた。夕暮は迫つてゐた。白い地平線から吹いて来る寒風に曝されて、一と塊りの見窄らしい家屋がならんでゐるのを見た時、僕は、千四百人の少年が、ここで冬を過すとはとはどういふ事であるかを理解した。それは本の統計にも説明にも書いていない事であった。


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