文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

田久保忠衛の正体。櫻井よしこのお友達であり、櫻井よしこが理事長を務める「国家基本問題研究所」なる怪しい団体の副理事長を務める田久保忠衛。田久保忠衛とは何者か?その田久保忠衛が「吉田ドクトリン」を批判しているらしい。しかし、田久保忠衛の「吉田ドクトリン批判」はパクリである。それを、鬼の首でもととったかのように引用=礼賛する櫻井よしことは、まさに「ネット右翼」そのものとでも言うしかない。ー「ネット右翼亡国論」としての「櫻井よしこ研究」ー。

dokuhebiniki2015-05-25



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櫻井よしこ田久保忠衛に対談集がある。『国家の目醒め』というものである。それを読んでいくと、田久保忠衛が、「吉田ドクトリン」について言及しているところがある。興味を持って読んでいくと、少し、変だなと思うところがある。田久保忠衛は、こう言っている。


実は、「吉田ドクトリン」を批判したのは田久保忠衛が最初ではない。しかし、田久保忠衛は、過去の「吉田ドクトリン批判」には触れようとしない。「吉田ドクトリン批判」が、田久保忠衛のオリジナルであるかに見える。

私は八五年に雑誌『諸君!』で「歪曲された吉田ドクトリン」と題する長い文章を書き、永井陽之助氏を批判しましたが、その準備のために吉田と親しかった辰巳栄一・偕行社名誉会長(九一)にインタビューしたことがあります。
(櫻井よしこ/田久保忠衛対談集『国家の目醒め』)


田久保忠衛によると、関係者(辰巳栄一)の証言から、吉田茂自身は、のちに、軍事軽視、経済優先の「吉田ドクトリン」を、間違っていたと認め、自己批判していたということのようだ。田久保忠衛は「吉田ドクトリン」の中心的実行者が、吉田茂だったということを疑っていない。


私が、「吉田ドクトリン批判」をはじめて読んだのは、江藤淳の「吉田茂と養子政治」であった。江藤淳の「吉田茂と養子政治」は、1983/9に「正論」に掲載されている。田久保忠衛が、吉田ドクトリン批判を書いたのは、1985の「諸君!」のようだ。とすると、田久保忠衛は、江藤淳の「吉田茂と養子政治」を読んでいたはずである。


田久保忠衛が、「吉田ドクトリン批判」のアイデアを、江藤淳の論考から得たことは、ほぼ間違いないと思われる。田久保忠衛の吉田ドクトリン批判の論理構造は江藤淳のそれと瓜二つである。しかし、田久保忠衛の吉田ドクトリン批判には、何かが欠けている。


江藤淳は、吉田ドクトリンの中心人物を、吉田茂自身とは限定していない。吉田茂が「吉田ドクトリン」へ、大きく舵を切ったことに、吉田茂の「変身」「転向」を読んでいる。エピゴーネン(「ネット右翼」)らしく、田久保忠衛は、そこを見逃している。江藤淳は、こう言っている。

この屈折と転換は、高度の政治的判断の結果としか考えられません。そうでなければ法理解釈が急変するとは考えらない。高度の政治的判断を行った主体はだれなのか。日本側おいては、推測の限り吉田茂でなければならない。アメリカの側においてはだれか。ジョン・フォスター・ダレスである可能性が大きい。

江藤淳は、吉田茂が、単純に「吉田ドクトリン」(「吉田政治の規範化」)を信奉し、それを実践していたとは見ていない。ある時点で、吉田茂が転向したと見ている、と言っていい。吉田茂に、なんらかの政治的圧力が加わったのではないか、と。

ただし、これはあくまで状況証拠にすぎません。外務省、つまり日本政府の態度が一変したのは事実ですから、それははっきり指摘できますが、なぜ変わったか、だれが変えたかについては、日本側のみならずアメリカ側でも文書が未公開のままなので、いまのところ結論の出しようがないのです。私はせいぜい長生きして、これが単なる推論ではなく事実であることを立証したいと思っております。

(江藤淳『同時代への視線』所収「吉田茂と養子政治」)


その後、多くの資料や文書が公開され、江藤淳の推論は、豊下樽彦等の研究(『昭和天皇マッカーサー会見』『安保条約の成立』など)によって、ほぼ明らかになったといっていい。


さて、田久保忠衛だが、櫻井よしことの対談集『国家の目醒め』を読む限り、豊下樽彦等の研究や論文、書籍を読んでいないらしいことが、分かる。田久保忠衛は、元々は「時事通信」の記者である。つまり、櫻井よしこと同様にジャーナリストであって、政治学者でも思想家でもない。情報は持っているらしいが、本は読んでいない。


田久保忠衛櫻井よしこも、ジャーナリストであって、元々、政治学者でも思想家でもない。専門の研究者なら、読むべき大事な本を読んでいないことは、致命的なことだ。だが、櫻井よしこ田久保忠衛なら不思議ではないかもしれない。しかし、そういう人が、日本政府の政治政策や決断に影響を与えているとすれば、笑うに笑えないだろう。


田久保忠衛櫻井よしこも、永井陽之助の言う「吉田ドクトリン」は、吉田茂の思想だったと、素朴に信じ込んでいるようだ。豊下等の等の研究成果を考慮するならば、「吉田ドクトリン」は、吉田茂の思想や判断ではなく、昭和天皇の思想であり判断であったことは明らかだ。


つまり、田久保忠衛櫻井よしこ等の勇ましい「吉田ドクトリン批判」は、結果的に「昭和天皇批判」に直結するということだ。もちろん、田久保忠衛にみ櫻井よしこにも、そんなことは想像だにできないことだろう。無知無学とは恐ろしいものだ。


「吉田ドクトリン」という発想を言い出したのは、永井陽之助ではなく、『宰相吉田茂』で、吉田政治を、「軽武装、経済重視」の政治思想として定式化した高坂正堯だった。高坂正堯も死んだが、弟子たちは、「高坂正堯著作集」を出す時、豊下樽彦等の研究成果を取り入れ、間違っているところの訂正を行っている。


(続く)
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