文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

何故、吉田茂は、「安保条約」に一人だけ署名したのだろうか?米国側がダレスなど四名が署名しているのに、日本側の署名が、吉田茂だけなのは、何故か?吉田茂だけが、「安保条約」を積極的に支持しなければならないという意思を持っていたからだろうか?

dokuhebiniki2015-04-11



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それでは、それは、何故か?おそらく、吉田茂だけが、何があっても「日米安保条約」という「日米軍事同盟」を結ばなければならないという昭和天皇の意思を知っていたからである。昭和天皇は、日本国憲法9条によって生じる「軍事空白」と、それがもたらすかもしれない共産主義革命の可能性に強い危機感を抱いていたのだ。


吉田茂は、天皇にしばしば「内奏」し、日米交渉の内容を報告している。しかし、その中でも、講和条約と安保条約の締結を前にした7月19日の「拝謁」は、重要な節目となった日であった。この日を境に吉田茂は、不平等で片務的な、明らかに屈辱的な「安保条約」の締結へと積極的に動き始めるからである。


江藤淳は、『吉田茂と養子政治』の中で、高坂正堯に代表される「吉田ドクトリン」=吉田政治を神話化=絶対化し、賛美する風潮に対して、「マッカーサーの『養子』としての吉田政治」を指摘し、異議申し立てをおこなっている。



そして、江藤淳は、50年ごろ、日本の外交政策に大きな転換が起こったと主張し、その転換の中心に吉田茂がいるはずだと言っている。日本の外交政策が、敗戦国とはいえ、曲がりなりにも「自主外交」を模索していた時代から、無条件降伏を自明とする「隷従外交」の時代に転換しているというわけだ。


江藤淳は、昭和天皇については言及していない。まさか「日本国憲法」で「象徴」に祭り上げられた昭和天皇が、戦後日本の外交政策に深く介入しているとは想像していなかったのかもしれない。だから、江藤淳は、執拗に、吉田茂の「変節=転向」を問うのである。


問題は、吉田茂ではなく、昭和天皇だった。吉田茂の「変節=転向」は、サンフランシスコ行きを逡巡する吉田茂に対し、昭和天皇からの「御下命」と「御叱責」があったからだろうと、豊下楢彦は、『昭和天皇マッカーサー会見』で分析している。吉田茂は、昭和天皇の意思を体現すべく、だだ一人、サンフランシスコ郊外の基地内で署名したのであろう。


むろん、私は、「米軍基地無条件延長」を認める「安保条約」を推し進めた昭和天皇の「国際情勢認識」が間違っていたとは思はない。この時点での「日米安保条約」の締結は最善の道だったと思う。日本の戦後の政治的安定と発展は、この「軍事同盟」によってもたらされたからである。昭和天皇に、この危機感と政治的リアリズムを教えたのは、誰か?


おそらく、先週の「週刊朝日」が明らかにした、戦前は武装共産党のリーダーであり、逮捕されたのち転向し、戦後は熱烈な天皇擁護論者になっていた「田中清玄」であったかもしれない。つまり、昭和天皇の世界情勢に関する分析と評価、認識の多くは、「田中清玄」を通して得られた国際情報(インテリジェンス)にもとずくもんだったと言っていいかもしれない。


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