文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

マルクスの存在思想ーマルクスは、エンゲルスとは異なり、独特の感受性の持ち主だった。

マルクスは、唯物史観弁証法唯物論というようなマルクス主義の「体系化」 、つまり、「イデオロギー化」を試みなかった。それは、マルクスの独特の感受性にある。


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たとえば、マルクスは、『ヘーゲル法的学批判序説』のなかで、こう言っている。


「しかし人間というものは、この世界の外部にうずくまっている抽象的な存在ではない。人間とはすなはち人間の世界であり、国家であり、社会的結合である。この国家、この社会的結合が倒錯した世界であるがゆえに、倒錯した世界意識である宗教を生みだすのである。」



これがマルクスの宗教論であるが、実は、ここに「唯物論的転倒」に向かう一歩がある。マルクスは、古い宗教を批判し、しれにとって代わるべき新しい宗教を提示しているわけではない。「宗教の批判」から「現実の批判」へ代わるべきだと言っているのだ。。現実の世界が倒錯しており、悲惨であるが故に、宗教が生まれるのだ、と。「宗教の批判」から「現実の批判」へ。これを図式化すれば、誰にも理解できる。しかし、この転回=転倒は、それほど、分かりやすいだろうか。この転回=転倒を驚きの眼で、見ていたのはマルクス個人である。
さらに、こう言っている。


「宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨に対する抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの、嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。」



「宗教は民衆の阿片である」という言葉だけが有名になりすぎたために、その前段の重要な文章が忘れられている。つまり、「宗教の批判」は「現実の批判」にとって代えられなければならない、と言うことが忘れられている。「宗教は民衆の阿片である」であるから、「宗教を信じるのを止めよ」ということではない。ある意味では、「宗教を信じるのは仕方がない」とマルクスは、ここで、言っていると読むべきだろう。要するに、マルクスは、宗教を、啓蒙主義的に批判すればいい、と言っているわけではない。






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