文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「小保方博士バッシング報道事件」の真相と深層。科学主義と科学は激しく対立する。科学主義者たちは、「科学」や「科学者」を、激しく攻撃する。何故か?


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たとえば、誰でも知っている例で言えば、「ガリレオ・ガリレイ」を、当時の科学者たち、つまり科学主義者たちは、どう受け止めていただろうか?歴史に残るような「革命的成果」を上げた一流の科学者として尊敬し、温かく迎えただろうか?残念ながら、多くの一流の科学者は、悲惨とまでは言わないが、決して厚遇されることはなかった。


何故、そいうことが、頻繁に、おきるのだろうか?その時代の平均的な、大多数の科学者たちは、むしろ、一番、悪質な抵抗勢力を形成するのだ。科学者が「科学」を理解できるというのは、大きな幻想である。つまり、普通の非凡な「科学者たち」は、「科学主義者」に過ぎないからだ。


これは、科学に限った話ではない。文学や哲学から政治や経済にまで通じる話なのだ。柄谷行人は、言語学者には「言語」への驚きがなく、経済学者には「商品」への驚きがないと言っているが、同じように、科学者には「科学」への驚きがない、ということが出来る。


僕が、小保方博士事件発生以来、科学者たちを敵に回して、小保方博士擁護論を続けているのは、そこに理由がある。今朝、法政大学教授だという「左巻健男」が、僕や僕の仲間たちを、「小保方博士事件」に端を発する「⚫▲◼★➡批判」に関連する「きのこ氏宅へのガサ入れ事件」の報告のついでに、「アフォ」だと罵倒しているTwitterの記事を読んだ。じつに低次元の罵倒である。


ところが、この法政大学教授(左巻健男)は、反論ー反撃すると、途端に、警察だの裁判だの凍結だのと騒ぎ出した。「言論には言論を」が成り立たない人のようだ。⚫▲◼★➡とどうように、自分への批判・反撃は、「誹謗中傷」であり、「人権侵害」「名誉毀損」で刑事告訴、裁判所・・・ということになるらしい。法政大学教授とは、こんな程度の人間が務まるものらしい。

(続く)

以下は、水野光彦氏のコメントである。重厚な論文なので、参考のために紹介したいと思う。水野氏のコメントには、凡庸なエセ科学者たちにはない鋭敏な思考だけが理解できる「何か」がある。

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水野 光彦 2014.10.31「小保方 さんの割烹着」
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 小保方さんの割烹着は、小保方さんへのバッシングにたびたび利用された。経済評論家の植草一秀は、そのブログにおいて頓珍漢な論理 (どこから見ても土建屋のおやじにしか見えない理研改革委員会の岸 輝雄などが言った科学の研究における世界の三大不正のひとつ、のことばを鵜呑み) を展開し、読者に注意されて、この論評をようやく止めた。

 その内容は、いわく「理研は、小保方 さんの割烹着を事前に伊勢丹百貨店で購入し、準備した」、「STAP細胞研究の発表に備えて、研究室の衣替えを大きな費用をかけて行った」などである。

 理研STAP細胞の研究発表に関して、たしかこんなことを言っていた。「STAP細胞は生まれたばかりの科学であり、今後、その展開をあたたかく見守っていただきたい」である。しかし、残念ながら、この願望は東大・京大を中心とするエセ理学博士や自称サイエンスライター、マスコミ、およびそれらを鵜呑にする馬鹿な国民の総攻撃により潰されかかっている。

 植草一秀は小保方さんの割烹着を取り上げ、それを攻撃することで、何を言いたかったのか。おそらく、それは理研を中心とした科学技術体系の確立を政府が行おうとしていることが悪であり、それを追求することは善であるという単純な発想に基づくものであろう。

 小保方さんが割烹着を着ることは、理研の思惑もあったかもしれないが、小保方さんの提案もあったと思う。この辺については、当初 小保方さんを べたぼめ し、その直後に反転した日刊ゲンダイが詳しく記事にしていた。

 以上のことから、私が言いたいのは「ハレの日」に改まって着飾ったり、誇らしげに振舞うことの どこが おかしいのか である。

 日本の文化のひとつは「型」を尊重することである。これが、たとえば「結婚式はできるだけ簡素で、本当に信頼のできる仲間だけで行いましょう」とか「正月の儀式は、なにもあらたまってやる必要はないのではないか」とうようなマスコミの論調により、一段低いものとして国民の間にいきわたっているように思える。一体 誰が このようなことを言い始めたのか、誰が、何の思惑をもってこのようなことを言い始めたのか。典型的なのが「米を食うとバカになるからパンを食べましょう」といったという、パンを中心とした学校給食の普及である。

これは、山崎様の指摘している「イデオロギー的思考」と「存在論的思考」の違いと深く関係すると思う。

1843年に書かれた「ユダヤ人問題によせて」で、マルクスは次のことを言っている。

(政治的解放は古い社会の解体でもある に続いて)「古い社会の性格はどのようなものであったか? それは一言で特徴づけることができる。すなわち、封建制である。古い市民社会は直接に、政治的性格をもっていた。すなわち、たとえば財産とか家族とか労働の仕方とかという市民生活の諸要素は、領主権、身分、職業団体といったかたちで、国家生活の諸要素に高められていた。これらの要素は、このようなかたちで、個々人の国家全体に対する関係、すなわち彼の政治的関係、つまり社会の他の構成要素から彼が分離され閉め出されている関係を、規定していたのである。なぜなら、人民生活のこのような組織は、財産とか労働とかを社会的な要素にまで高めないで、むしろそれらを国家全体から完全に分離し、それらによって社会のなかの特殊な諸社会をつくりあげたからである。それでもなお、市民社会の生活諸機能や生活諸条件は、封建制の意味ではあるが、相変わらず政治的であった。すなわち、それらの生活諸機能や生活諸条件は、個人を国家から閉め出しながら、個人の属する職業団体の国家全体にたいする特異な関係を、人民生活にたいする彼自身の普遍的関係に変えるとともに、個人の特定の市民的な活動と状況を彼の普遍的な活動と状況に変えてしまったのである(と封建社会では捉えることができた)」括弧内は水野注。(岩波版 49p.)

 ひとつの例で、わかりやすくいうと、(かなり乱暴だが) 大型ショッピングセンターと商店街で買物をすることの差がある。大型ショッピングセンターでの買物は、買物をする人の政治的活動を生み出さないが、商店街で買物をするときには、その人は、買物により政治的活動に参加することができる である。

 これに続いて、49から50p.では、
「(封建社会の)支配権力を打倒し、国家の業務を人民の業務にまで高めた政治的革命、政治的国家を普遍的な業務として、つまり現実的な国家とし確立した政治的革命は、共同体からの人民の分離をそれぞれ表現していたすべての身分、職業団体、同業組合、特権を必然的に粉砕した。それによって政治的革命は、市民社会の政治的性格を揚棄した(破壊してしまった)。(中略) 政治的革命は、いわば封建社会のさまざまな袋小路のなかへ分散され解体していた政治的精神を、その拘束から解き放った。」

マルクスがいわんとしたことは、フランス革命などの政治的革命が、個々人が職業団体、同業組合、特権などの局所的共同体に属することで、発現していた政治的活動を揚棄させ、それから切りはなし、アトム化した個人として国家のいいように動く存在になりはてた。さらに、それは個々人を「利己的な人間、市民社会の成員としての人間、すなわち、自分自身だけに閉じこもり,私利と私意とに閉じこもって、共同体から分離された個人である」(46p.)ような人間にすることを見抜いたたことだと思う。

イデオロギー的思考とは、このような政治的性格をもつ共同体における個人の活動を全く無視し、個々人の活動が生み出した結果を、国家という共同幻想(吉本隆明)に委託し、そのなかでものごとを考えることだと思う。フランス革命を絶賛している植草一秀が、このようなイデオロギー的思考をするのは当然ともいえる。    

 それに対して、存在論的思考とは、どういうものか。これは山崎様の論考にゆだねたいが、私の考えでは

 個々人の活動が行われた場所、状況などに基づいて思考することだと思う。このことは、その場所が政治的性格を生み出していたことを考慮することでもある。小保方さん達の研究成果は、その場所では研究者間の関係を通じて政治的であったはずであり、その政治的性格は健全なものであったと思う。しかし若山などがしゃしゃり出て国家との関係で この研究を政治的なものに揚棄し、科学的な論証などより優先して国家と関係づけたこと(イデオロギー的思考にすり替えたこと)は間違いであるということである。このことは、小保方博士をバッシングした連中のすべてが、イデオロギー的思考しかできない三流のエセ科学者達であることからもいえる。

彼らは、若山が小保方さんらの研究をイデオロギー思考にすり替えたときに、彼らの市民生活の本当のところを支配している強欲な利己心、国家に委託してしまえば正義ともなる強欲な利己心との共鳴を見出し、はじめて、この主題にとびつけたのである。

科学の研究の現場では、イデオロギー的思考などはなんの役にも立たない。小保方博士のSTAP細胞の研究は、この文脈でとらえれば、エセ理学博士などの馬鹿が騒いでいる問題はなにもなく、むしろ我が国の科学・技術のていたらくを改革する契機となるものである。

 だかこそ、「誰か」は、エセ科学者、マスコミ、および馬鹿な国民を総動員して潰しにかかかっている。

 山崎様は、「イデオロギー的思考」と「存在論的思考」というかたちで、ぼんくらが跋扈する我が国の状況を鋭く指摘され、さらにその克服の方向性を示されたと思います。

 最後に、小保方博士におかれては、STAP細胞の概念をさらに深める研究(仮説とその実証)に没頭していただきたい。我々は、その研究環境の整備を絶対にすべきである。

ーー了ーー






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