文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「下駄屋の次男坊」の政治経済学 。ー「竹中平蔵研究」ー3ー。

dokuhebiniki2013-10-27

人気ブログランキングへ

佐々木実という人が書いた『市場と権力』を読んだ。「新潮ドキュメント賞受賞」の話題作である。前に雑誌掲載時も読んで知っていたが、書籍化されたものを読むとまた違う。特に竹中平蔵の少年時代の調査と分析は、「少年時代の原体験」に興味を持つものには面白い。しかし、佐々木氏のように、思想家や政治家、あるいは学者の本質を解明するのに、少年時代の貧しさや差別、野心などを重視する「コンプレックス史観」に頼りすぎるのは危険だと思われる。コンプレックスというものは、それほど単純なものではない。竹中平蔵は、単純素朴なコンプレックス史観では説明できない問題を抱え込んでいる。おそらく、竹中平蔵の思想的な「過激さ」や「奇怪さ」、「突破力」は、少年時代の原体験だけでは説明できない。竹中平蔵の少年時代や一橋大学の学生時代には、「コンプレックス」というより「存在の哀しみ」のようなものを感じる。佐々木氏によると、竹中平蔵少年は、和歌山県和歌山市内の「下駄屋の次男坊」だった、という。その事実を重視することに反対ではない。しかし、重視しすぎると、問題の本質を見失う。竹中平蔵が、それほど自分の出自や父親の職業にコンプレックスを感じていたようには見えない。竹中家はそれほど貧しくはなかったが、近くに比較的に裕福な人たちが住む高級住宅街があり、相対的には、貧しい方だったようだ。少年時代の友人の一人は、竹中家の貧しさを強調し、「竹中平蔵が裕福な家に生まれていたら、今の竹中平蔵はなかっただろう」というようなことを言っているが、私は違うと思う。竹中平蔵少年が体験した「貧しさ」は、もっと違う種類の貧しさだったように、私には思える。どんな裕福な家庭の少年でも感じるような貧しさだったはずだ。「貧者の哀しみ」は貧者だけが感じるのではない。考える少年、存在論的思考をする少年たちが、不可避的に感じる哀しみだ。竹中少年は、三人兄弟の次男。ちなみに、私は、三人兄弟の三男だった。私は、少年時代の竹中平蔵に違和感は感じない、むしろかなりの部分で共感できる。私の「竹中平蔵研究」は、共感から始まる。つまり、竹中平蔵は、私が尊敬・畏怖する思想家や文学者に近い。小林秀雄江藤淳柄谷行人・・・にも、同じような「貧しさ」と「コンプレックス」、そして「存在の哀しみ」を感じるからだ。誤解を恐れずに言えば、竹中平蔵は、小林秀雄江藤淳柄谷行人・・・らに匹敵するようなレベルの存在論的思考の出来る「恐るべき人物」だと思われる。(続く)



人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ (続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから→http://www.mag2.com/m/0001151310.html