文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

『保守論壇亡国論』と西尾幹二論。以下は西尾幹二論の一部です。


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(『保守論壇亡国論』より)


 福田恆存には、政治情勢論や社会情勢論を書きながらも、その一方で、同じ一つのテーマを執念深く追究し続け、作品化するという姿勢があった。しかし、西尾にはその姿勢が完全に欠落している。西尾が作品を創造できない理由はそこにある。

■「江藤淳的なもの」の喪失
 西尾はニーチェの翻訳者、文藝批評家としてデビューした頃から、本人の自己評価はともかくとして、あまり目立つ存在ではなかった。要するに、一流ではなかった。
 しかし、西尾は現在では、保守論壇の重鎮として華々しく活躍しているように見える。西尾が大きな成お長を遂げ、思想的に成熟したということだろうか。むろん、そうではない。西尾が保守論壇の重鎮的存在として活躍できるほどに、昨今の保守論壇が思想的に劣化したということだ。
 西尾の思想的限界を知るためには、『三島由紀夫の死と私』という著作を読んでみればいい。西尾はそこで、江藤淳を批判している。しかし、ここにこそ、西尾の才能と資質の限界が端的に現れている。
 西部邁櫻井よしこも、江藤淳を批判・罵倒することから言論活動を開始したと言えば、やや大げさになるかもしれない。しかし、ほぼそれに近いことは確実である。本書で取り上げた保守論客たちの中で、思想的影響を受けた人として江藤淳の名を挙げているのは、中西輝政ぐらいであろう。
 本書『保守論壇亡国論』は、昨今の保守論壇批判であると同時に、江藤淳論でもある。江藤淳が自殺し、「江藤淳的なもの」が論壇やジャーナリズムから消えるとほぼ同時に、保守論壇の劣化が始まったのである。
 西尾はある時から突然、江藤淳を批判し始めたが、何故西尾が江藤淳を批判しなければならないのか、私には理解できなかった。一方で、西尾は三島由紀夫保守論壇の「神」として絶賛していた。ここにも思考の単純化、図式化、二元論化が見られることは言うまでもない。
 『三島由紀夫の死と私』の出版以前から、西尾は講演などで、三島由紀夫を称賛する一方で、江藤淳を批判・罵倒していた。しかし、やはり、講演よりは書物の方が重要である。私はこの本を読むことによって、西尾と江藤淳の資質の違いがわかった。これからそれについて見ていきたい。

小林秀雄江藤淳の真剣勝負
 自衛隊市ヶ谷駐屯地に押しかけ、バルコニーから檄文をばらまき、自衛隊員に決起を呼びかけ、その後、森田必勝とともに割腹自殺した三島由紀夫については、私も関心を持っており、『小説三島由紀夫事件』という書物も書いた。もちろん、それなりに資料や文献に当たり、詳しく調べた。
 しかし、私は三島由紀夫の「死」について書いた本には、あまり興味が持てない。特に、三島由紀夫の死を賞賛し、絶賛する類の文章や書物には、何か胡散臭いものを感じて、あまり読みたいとは思わない。
 そうした文章や書物の中には、事件の強烈さに圧倒されて、三島由紀夫と自分自身の見分けがつかなくなり、あたかも自分自身が三島由紀夫になったかのように錯覚しているものが少なくない。三島由紀夫と自分自身の区別もできない人に、三島由紀夫の死を批評できるわけがない。「私は三島由紀夫ではない」という自己意識を持たず、あたかも三島由紀夫の真の理解者を気取り、三島由紀夫を「神」のように崇める人に、私は関心がない。したがって、私が読むのは、もっぱらドキュメンタリーのような実録の類である。
 その意味で、私は西尾の『三島由紀夫の死と私』も、あまり読む気になれなかった。が、三島由紀夫の死の賞賛だけではなく、江藤淳への批判・罵倒があったから、そこに批評的刺激を感じて読む気になったのである。
 この『三島由紀夫の死と私』もまた、三島由紀夫の死への賞賛に溢れており、あたかも三島由紀夫の死と思想を理解できるのは自分だけだと錯覚しているような著作である。しかし、そういう称賛・共感は、凡庸なものにすぎない。西尾本人にとっては深刻な問題なのかもしれないが、本人が深刻な態度を取れば取るほど、それに比例して滑稽で喜劇のように見えてくるのが、三島由紀夫事件関係の文章や書物である。
 その一方で、西尾の江藤淳批判にも、良かれ悪しかれ西尾幹二という人間の本質が現れている。西尾が江藤淳を批判すればするほど、江藤淳との資質、才能、感受性の差が浮き立ってくる。西尾の江藤淳批判は、西尾自身の思想的限界を露呈しており、「亜流思想家の証明」になっていると言える。
 西尾の江藤淳批判の中心は、江藤淳三島由紀夫事件の評価にある。これは西尾に限らず、江藤淳を批判する保守派が必ずと言っていいほど取り上げるものである。
 西尾の江藤淳批判を見る前に、まず、江藤淳三島由紀夫事件の評価について見てみよう。これについて最もよく知られているのが、江藤淳小林秀雄の対談である。

《小林 ……宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性と純粋性では実によく似た気象を持った人なのだね。そして二人とも外国の人には大変わかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。
江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものなんじゃないですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃあれはなんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。
小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
小林 いやァ、そんなことをいうけどな。それなら、吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰三島由紀夫とは違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども……。
小林 合理的なものはなんにもありません。ああいうことがあそこで起こったということですよ。
江藤 僕の印象を申し上げますと、三島事件はむしろ非常に合理的、かつ人工的な感じが強くて、今にいたるまであまりリアリティが感じられません。吉田松陰とはだいぶちがうと思います。》(「歴史について」)

 江藤淳三島由紀夫、そして小林秀雄の戦い。私はこの対談を、どちらが正しく、どちらが間違っていると思いながら読むつもりはない。小林秀雄江藤淳も妥協せず、世論や時代に迎合せず、真剣勝負を行っている。この思想的・文学的戦いこそ本物であった、と私は考える。
 当代一流の思想家と思想家、あるいは文学者と文学者の命懸けの一騎討ちのような対談は、一見すると、とてもわかりやすいもののように思える。三島由紀夫の自決を擁護するものと、それを否定するものとの対談。文学や思想とは無縁な、あるいは文学や思想に疎い読者が、この対談をどう受け止めたかは明らかだろう。
 しかし、江藤淳小林秀雄の内在的論理を理解することは容易ではない。ましてや三島由紀夫の内在的論理は尚更である。
 そもそも、それ以前に、保守論壇の中で、この対談を読んだ者がどれほどいただろうか。この対談に対する批評や解説は、自称専門家のものを含めて、ほとんどが伝聞情報か、又聞きをもとにした受け売りの類ばかりである。
 「三島事件以後」とは、三島由紀夫の良き理解者を気取る者たちが、三島由紀夫を「病気」と切り捨て、三島事件を「ごっこ」にすぎないと批判した江藤淳を批判・罵倒してきた歴史だった。彼らはマスコミやジャーナリズムでわが世の春を謳歌してきたかもしれないが、それにより保守論壇は空洞化し、形骸化していったのである。
 江藤淳三島由紀夫がまだ生きていた頃にも、「『ごっこ』の世界が終わったとき」という論文を発表し、三島由紀夫と「楯の会」の活動を批判している。江藤淳三島由紀夫批判、「楯の会」批判は、一貫している。「三島事件」以後も、三島由紀夫批判は微動だにしていない。
 しかし、多くの人たちは、事件の衝撃の大きさに圧倒されて、それまでせせら笑っていた者たちも、三島由紀夫の行動と死を賛美し始めたのである。

■「生活と芸術の二元論」とは何か
 それでは『三島由紀夫の死と私』を見ていこう。三島事件について、福田恆存中村光夫をはじめ、多くの作家や批評家たちが沈黙し、発言を逡巡する中で、西尾は江藤淳を激しく批判・罵倒し始める。あたかも三島由紀夫に成り代わったかのように。私にはそれが滑稽で、かつ喜劇的に感じられるのである。そして、その滑稽かつ喜劇性を自覚できていないところに、西尾の思想的限界がある。いくつか引用してみる。

 《「『ごっこ』の世界が終わったとき」という文章は、江藤淳が間違いなく三島さんをからかうために書いたひどい文章です。(中略)
 なぜ「ごっこ」なのか。時の軍隊つまりは自衛隊が、一作家の私兵を入隊させて訓練させるとは何事か。そう江藤さんは言っているのです。また一方、全共闘は道路をバリケード封鎖し、解放区というものをつくって、交通を遮断し、戦争ごっこをする。警察はそれに対して遠巻きにするだけで、手を出さない。これは何事かというのです。江藤淳のこの言葉は、三島さんにとっては痛いものだったと思う。私は、江藤淳が三島さんを殺したと考えているくらいなのです。》(『三島由紀夫の死と私』)

 《……江藤淳のこの「『ごっこ』の世界が終わったとき」は明らかな生存中の三島さんへの批判です。そして江藤淳は、三島さんが死んだときにも嘲ったのです。それが私には許せなかった。》(同前)

 《江藤淳は三島の自決は彼に早い老年が来たか、さもなければ病気じゃないかと言いましたが、トルストイの死に「細君のヒステリイ」を見て悦に入る自然主義作家のリアリズム、いかにも分ったような、人生の真相はたかだかこんなものという「思想の型」によく似ているといってよいでしょう。(中略)
 私にはふとそのことに関連して思い出すことがあります。小林秀雄没後十年に際し、私は江藤淳と『新潮』(平成五年五月号)で対談しました。江藤が小林について相当に否定的なことを言い、正宗白鳥の文学的優位について熱弁を振っていたのが奇異に思えていましたが、ああそうかといま合点がいったのです。江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした。生活実感を尊重する自然主義以来の文壇的リアリズムにどっぷり浸っていた人でした。三島の悲劇は分らない人には分らないのです。》(同前)

 これらはただ、三島由紀夫の死を批判した江藤淳が許せないというだけの論理である。論理的、批評的なレベルで、江藤淳を論破できているとは言えない。
 西尾は「江藤さんは抽象的煩悶などにまったく無縁な人でした」などと軽々しく述べているが、江藤淳が晩年『南洲残影』を書いて、「西郷隆盛という思想」を重視し、その後、自ら命を絶ったことを知らないはずはない。それにも関わらず、こんなことを書くとは、西尾こそ「抽象的煩悶などにまったく無縁」ということではないか。
 そもそも、西尾は小林秀雄が「思想と実生活論争」で正宗白鳥を批判した後、晩年に最後の仕事として、「正宗白鳥の作について」という長編の正宗白鳥論を残したことを知っているのか。おそらく知ってはいるが、読んでいないのだろう。もし読んでいれば、こういう文章が書けるはずはない。
 もう少し『三島由紀夫の死と私』の問題点を見てみよう。西尾がここで立脚しているのは、「生活と芸術の二元論」である。これは、日本型私小説を批判し、否定する理論である。西尾は次のように書いている。

 《戦前から戦後へかけて文壇の主流は私小説でしたから、批評家は口を揃えて、自然主義的リアリズムが作家の身辺の出来事に取材した私小説の方法に帰着したのは西洋文学の誤解であり、作家の自我のあり方がいかに西洋のそれとは異なるかを力説してやみませんでした。(中略)
 なぜこんなレベルの告白小説が一躍文壇の主潮派を指導する地位をかち得たのか、分りません。花袋は社会人としての自分の恥をあからさまに書き立て、家長としての面目をあえて無視し、自分の弱点を、これこそが人間の真実だ、とわざと露呈してみせたのです。(中略)
 日本の作家は小説の中に自分とは異なる他者としての主人公を設定することが苦手なのです。ややもすると作家本人と主人公とがぺったり一致し、距離感がない。作家の実生活や実行行為がそのまま芸術表現となっている。作家の芸術家としての自己と社会人としての実生活、いいかえれば「芸術」と「実行」の間に区別がなく、最初から一致してしまっている、といえるでしょう。》(同前)

 そして次のように結論づける。

 《中村光夫福田恆存といった戦後の批評家がいっせいに問題として取り上げたのが日本の近代文学におけるこの自我の弱さ、「私」の未成熟、芸術家としての特権への甘え、身辺雑記を超えられない世界像の独特な狭隘さ、等々でした。》(同前)

 これは私小説批判、私小説否定論の一つのパターンであり、昔からあるものである。どうやら西尾もこのパターンの信者らしい。しかし、このような素朴な私小説批判で、果して私小説を否定できたと言えるだろうか。私には疑問である。
 この理論によると、三島由紀夫と三島文学はどのような評価になるのか。

 《「生活と芸術の二元論」は私が指摘したからではなく、三島さん本来のテーマであるのを私が取り上げ、あらためて説明に用いたからこそ、ぴったりとこのときの彼の行動と文学の関係の説明にフィットしていたのだといえるでしょう。けれども、自決によって、二元論はついに無効になりました。死ぬことで、生活と芸術は別個の領域ではなく、一元化してしまったからです。》(同前)

 《三島さんは作家の「私」は実生活で死んで、作品の嘘の中で生きなければならないという意味の二元論を尊重していました。実生活と作品世界を直結する日本型私小説の否定理論です。作家の私生活上の自分とは別の創造的な嘘、高度の客観化された虚構の作品世界を理想とする小説の考え方です。ヴェルテルは自殺したが、ゲーテは死ななかった、は口癖でした。トーマス・マンは銀行員のような私生活を送っていたが、デカダンな小説を書いた。日本の私小説作家は自堕落な私生活を送ることによって、自分の苦悩を演出し、その反映としての破滅型小説を書く。それはおかしい。三島さんが太宰治を嫌ったのはこのせいです。
 反体制左翼作家も、私生活上の正義と作品の美学とを混同する一元化という点において、三島さんのこの理論からすると私小説作家と同じ自我のあり方だということになるでしょう。そういう彼が、私生活において「楯の会」という反社会的な行動をする。これをどう解したらよいのか。》

 三島由紀夫が割腹・自決したという現実(実生活)から、三島由紀夫の文学や思想を解釈すれば、それは「生活と芸術の一元論」そのものと言うしかない。
 私は、三島由紀夫にとっては、「楯の会」より『三島由紀夫全集』の成功と名誉の方が大事だったのではないか、という疑問が捨てられない。事件当日かその前夜、『豊饒の海』の原稿を完成させ、そこに「完」と書いたのは何故か。三島由紀夫は「実生活」で文字通り死ぬことによって、『三島由紀夫全集』という「作品」の世界に、永遠に生きようとしたのではないだろうか。実際、三島由紀夫の実生活(死)は、その作品の価値を高めることとなった。
 三島由紀夫にとって、最終的には、実生活と作品は無縁ではなかった。作品が実生活から独立していたのでもない。実生活と作品の一致、つまり言行一致、知行合一こそ、三島由紀夫がたどりついた最終地点だった。
 そういう意味で言えば、三島由紀夫こそ典型的な日本型私小説作家だったということになる。小林秀雄も、そして多くの三島崇拝者たちも、そこに感動したのではないのか。西尾の言う、西洋文学的な「芸術と実生活の二元論」などに感動したのではない。

小林秀雄三島由紀夫をどう評価したか
 西尾は、江藤淳三島由紀夫の死に批判的であり、それに対して小林秀雄三島由紀夫の死を肯定的に評価していると考えているようだ。
 しかし、小林秀雄はそれほど単純に三島由紀夫の死を肯定したのか。あるいは、こう言い換えてもいい。小林秀雄は「生活と芸術の二元論」をどう評価していたのか。
 小林秀雄三島由紀夫は、三島由紀夫が『金閣寺』を書き上げた直後に対談しているが、小林秀雄はそこで、三島由紀夫をかなり辛辣に批評している。

《小林 やっぱり、あれ(『金閣寺』のこと)は、毀誉褒貶こもごも至るというやつだろうなあ。
三島 ……(笑う)
小林 何か、批評っていうことを、しなきゃいけないんですか。雑談でいいんでしょ? まあ、そういうふうなのんきなことにしてもらいましょう。》(「美について」)

《小林 ……だから抒情詩になるわけだよ。無論、作者はそういう意図で書いたんだと思うんだよ。だから抒情的には非常に美しいものが、たくさんあるんだよ。ありすぎるくらいあるね。ぼくはあれを読んでね、率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね。
三島 ……(笑う)
小林 つまり、あの人は才能だけだっていうことを言うだろう。何かほかのものがないっていう、そういう才能ね、そういう才能が、君の様に並はずれてあると、ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな。きみの才能は非常に過剰でね、一種魔的なものになっているんだよ。ぼくにはそれが魅力だった。あのコンコンとして出てくるイメージの発明さ。他に、君はいらないでしょ、何んにも。」》(同前)

 小林秀雄はここで、三島由紀夫と三島文学を暗に批判している。「何か、批評っていうことを、しなきゃいけないんですか。雑談でいいんでしょ?」と、婉曲な批判であるが故に、かえって手厳しい批判になっている。三島由紀夫も言葉に窮している。つまり、小林秀雄が三島文学の良き理解者だったというのは間違いである。
 この対談からも推察できるように、小林秀雄は実は三島由紀夫の人工的な文学を認めていない。これは、小林秀雄三島事件直後に展開した三島由紀夫論とはまったく異なるものである。
 小林秀雄は、三島由紀夫が尊重し、そして西尾が固執する「生活と芸術の二元論」を信じていない。小林秀雄三島事件を評価したのは、そこに「生活と芸術の一元化」を見たからである。小林秀雄の批評的立場は、あくまでも「芸術と実生活の二元論」にこだわる西尾、あるいは中村光夫福田恆存とは異なるのである。
 そもそも、日本型私小説は、西尾の言うような「自我の弱さ」や「『私』の未成熟」などで説明のつくものではない。
 柄谷行人私小説について、こう書いている。

 《中村光夫に代表される日本の批評家たちはつねに私小説を標的としてきた。私小説では主人公と作者が同一人物であるという了解が前提されている。このことが作品を自立的な世界たらしめることを不可能にしてきたと、批評家たちは口を揃えていうのである。そして、そのきっかけを作ったのは、田山花袋の『蒲団』(明治四〇年)であったというのが通説である。(中略)
 花袋の『蒲団』によって、日本の小説の方向がねじまげられたという説をかりに認めてもよい。しかし、ねじまげられなかったらどうだったというのか。批評家たちが夢想してきた、日本の小説のありうべき正常な発達は、はたして正常なのか。もし、彼らが範とする西洋の正常さが、それ自体異常だとすればどうなのか。日本の「私小説」の異常さがむしろそこからはじまっているとすればどうなのか。》(『日本近代文学の起源』)

 西尾に柄谷行人ぐらいの深読みを期待するのは無理だろうが、西尾の私小説批判は素朴すぎる。保守思想家でありながら、西欧の文化的価値体系を基準にして日本の近代文学を批判し、裁断していくことは、オリエンタリズム以外の何物でもない。しかし、西尾にはその自覚がない。

三島由紀夫の特攻隊コンプレックス
 私は、文学や思想というものが、西尾の考えるほど単純素朴なものだとは思わない。三島由紀夫の思想を、三島事件からのみ考えることは間違っている。
 三島由紀夫は自決当日にまいた檄文に、「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか」と書いている。しかし、その立派な、勇ましい思想の背後には、誰にも言えないような「哀しい体験」が隠されていた。
 三島由紀夫の父親、平岡梓が書いた『伜・三島由紀夫』には、三島由紀夫赤紙を受け取った時のことについて書かれている。
 赤紙を受け取った三島由紀夫と父は、早速、本籍地のある兵庫県に向かった。敗戦を目前にして入隊検査を受けるためである。合格すれば間違いなく、特攻隊の一員として命を落とすことになる。実際、三島の母親はそれを直感し、涙顔で乱れ髪のまま玄関まで出てきて見送ったという。
 平岡梓はこの時の様子を次のように書いている。

 《僕らは検査場のある町に着いて知人の家に一泊することになりましたが、伜は母同様出発時にはちょっと微熱が出ておりましたのが急に高熱になり、医者は飛んで来る、薬だ氷だ、とこの家には大変な御迷惑をかけてしまいました。翌日無理を押して受検に出かけましたが、結果は不合格で、「即日帰郷」となりました。(中略)
 それから別室で軍曹から、「諸君は不幸にして不合格となり、さぞ残念であろう。決して気を落さず今後は銃後にあって常に第一線に在る気魄をもって尽忠報国の誠を忘れてはならない」云々と長々とした訓示を受けました。
 訓示がすむのを今やおそしと待ちかまえていた僕は、すんだ途端に出口の兵隊さんのところに走り寄り、「もうこれで今すぐまっすぐ東京の家に帰っていいのですか」と馬鹿念を押して外に飛び出しました。(中略)
 門を一歩踏み出るや伜の手を取るようにして一目散に駈け出しました。早いこと早いこと、実によく駈けました。どのくらいか今は覚えておりませんが、相当の長距離でした。しかもその間絶えず振り向きながらです。これはいつ後から兵隊さんが追い駈けて来て、「さっきのは間違いだった、取消しだ、立派な合格お目出度う」とどなってくるかもしれないので、それが恐くて恐くて仕方がなかったからです。(中略)
 駅に着くと、汽車の入って来るのをやきもきしながら待っておりました。汽車に乗るとやや落着きを取戻し、段々と喜びがこみあげてきてどうにもなりませんでした。》

 これが、若き日の三島由紀夫の姿である。話をいくらか割り引いて考えたとしても、おそらくたいした違いはないだろう。後の三島由紀夫からは想像もできないことだが、三島由紀夫は徴兵検査場から逃げ帰った男なのである。これもまた真実である。思想も文学も、そして政治もまた単純ではない。それがわからなければ、人間存在に迫ることはできない。*1

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*1:続く