文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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ウィトゲンシュタインの言語哲学ー「意味の検証理論」から「意味の用法理論」へ。

dokuhebiniki2013-07-15


学生時代、夢中になって読んだ本に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』という風変わりな哲学書があった。分かるか分からぬかはともかくとして、そこに書かれている謎めいた言葉に感動した記憶がある。その数々。「人は語り得ぬことについては沈黙しなければならない」。「私の本を読み終えたら、投げ捨てよ」。「世界が存在することそのものが神秘なのだ」。
さて、そのウィトゲンシュタインのことだが、「意味の検証理論」から「意味の用法理論」へとウィトゲンシュタインの哲学的思考が転回したことはよく知られている。しかし、この前期ウィトゲンシュタインから後期ウィトゲンシュタインへの転回の意味ということになると、必ずしも、自明ではない。つまり、ウィトゲンシュタインのこの転回は重要だが、その時ウィトゲンシュタインが直面した「存在」と「深淵」はもっと重要だ。読者には、ウィトゲンシュタインが直面した壁、つまり「存在」と「深淵」の意味が分からない。読者は、「存在」と「深淵」を体験しない。
カントとウィトゲンシュタインが、時代を越えて共有するテーマは「理性の限界」を明らかにするということであった。カントは、「物自体」は理性では認識できないといい、ウィトゲンシュタインは「語り得ないことについては沈黙しなければならない」と言った。しかし、二人ともそこにとどまりはしない。
カントは、「実践理性」では認識不可能ではないと考える。我々が生きている世界は実践理性の世界だ。つまり、我々の生きている世界は、「純粋理性」の世界、「真偽」の世界ではないということだ。それは、ウィトゲンシュタイン的に言えば、言葉の意味は、「用法」で決まる、ということだ。
歴史問題にしろ選挙演説にしろ、「私は正しい」「私の話は真理だ」という「真偽」的立場からの言説は怪しい。説得力を持たない。大衆の集合的無意識には届かない。何故か。我々の生きている世界は実践理性の世界だからだ。当然のことだが、言葉の意味は、文脈、状況、空気によって臨機応変に変化する。
たとえば、慰安婦に関する橋下徹大阪市長の発言がダメなのは、橋下発言が間違っているからではない。言葉の「意味は用法である」が分かっていないからだ。発言には、何事であれ、その場の空気、心理的背景、文脈、状況が重要なのだ。韓国側には韓国側の言い分がある。しかしそれも正しいわけではない。おそらく、従軍慰安婦の話が「大嘘」だということは、韓国の人たちも知っているだろう。しかし、それは言えない。言ってはならないことだからだ。
同じことだが、選挙演説で、しばしば繰り返される「・・・反対」「・・・反対」「・・・反対」という御題目のような言葉も、大多数の国民の集合的無意識にはどどかない。間違っているからではない。たとえ理論的に正しかったとしても、「意味の用法理論」(ウィトゲンシュタイン)、ないしは「実践理性」(カント)においては、間違っているからだ。
国民は、今、何を望んでいるか。あるいは、国民は、無意識のうちに何を欲望しているのか。大衆の集合的無意識に届く言葉を見つけることが、政治家の勤めだろう。大衆の集合的無意識に届く言葉は、凡庸な三流文化人にも、政治学者にも、政治ジャーナリストにも分からない。しかし、一流の政治家にはそれが分かるはずだ。それが分からなければ、選挙に勝てない。


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