文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

近刊『保守論壇亡国論』で言いたかったこと。それは、「保守」と「保守主義」の違いについてである。それは、言い換えれば、「マルクス」と「マルクス主義」の違いについて・・・ということでもある。この違いが、最近の保守思想家たちは分かっていない。彼らに、語るべき「作品」と「創造」がないのは、そのためだ。

マルクス」と「マルクス主義」の違いについて柄谷行人は、こう書いている。

  ≪マルクスは膨大な著作を残したが、それらは基本的に断片的であって、マルクスの哲学とか経済学とかコミュニズムというものをそれ自体で取り出すことはできない。最初にそれらを体系化しようとしたのは、マルクス死後のエンゲルスでった。彼はヘーゲルの哲学体系に合わせて、マルクス主義の体系を構成した。弁証法唯物論(論理学)、自然弁証法(自然哲学)、史的唯物論(歴史哲学)、経済学と国家論(法哲学)、など。以後、マルクス主義者はそれを文学・芸術論(美学)を含めて完成させようとしてきた。だが、それらは根本的に疑わしいのだ。マルクスが一度も体系化しようとしなかったのは、時間がなかったからではない。それを拒絶していたからである。≫(『トランスクリティーク』岩波現代新書p198)

マルクスエンゲルス。決して二人は一体ではない。エンゲルスもまた、マルクスとは異なるが、独特の思想的才能の所有者だった。エンゲルスの思想的才能なしにマルクス主義が、現在あるような思想体系に体系化し、マルクス主義として完成することはなかったといっていい。しかし、では、マルクス自身はどうだったか。柄谷行人が言うように、マルクスは、マルクス主義として体系化しようとはしなかった。「体系化」することを拒絶していたからである。つまりマルクス的思考は、決してエンゲルス的思考と同じではないということである。マルクス的思考とマルクス主義的思考、ないしはエンゲルス的思考は異なる。では、マルクス的思考は、どういう思考であり、何を目指したのか。柄谷行人は、続けて書いている。


  ≪明白なことは、マルクスの「思想」は、それ以前のものに対する「批判」としてしか存在していないということである。たとえば、未完成であるにせよ、体系的に書かれた書物とといえる『資本論』も、「国民経済学批判」というサブタイトルが示すように、批判の書である。だが、それは前代の理論を批判するという意図をもっているのではない。「批判」は、たんに相手を否定することではない。だから、マルクス先行者を否定して、何か積極的な学説を定立したかのように見なすのはまちがっている。同様に、彼がたとえばリカードの亜流、ヘーゲルの亜流でしかないというのもまちがっている。マルクスの仕事を根本的に「批判」として読むことが何よりも重要なのだ。マルクスの「批判」は、そり歴史的文脈がいかに古びたとしても、けっして意味を失わない。≫ (『トランスクリティーク』)

 マルクス的思考は「批判」的思考なのである。新しい体系を構築することではない。マルクス的批判は、体系の再構築を目指すための批判ではなく、まさしく「批判」そのものなのである。柄谷行人は、さらに、こんなことも書いている。


  ≪人々は、マルクス主義実存主義というような「問題」を立ててきた。だが、彼らはマルクスという「実存」を無視してきたのである。≫ (『トランスクリティーク』)



(続)



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