文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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孫崎享の「北方領土返還交渉」の歴史の誤解と隠蔽。

(この小論は近著保守論壇亡国論』に収録予定の論考の一部です。)
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 孫崎享は、「北方領土返還問題」「尖閣諸島問題」についてもかなり詳しく言及しているが、そこにも、思考の単純化、思考の図式化・・・による誤解と隠蔽が見られる。
 たとえば、北方領土交渉について、例によって重光葵に賞賛・共感するあまり、重光葵の行った北方領土返還交渉における稚拙な日pソ交渉の歴史と事実を、隠蔽・歪曲し、重光葵を美化し、偶像化している例が見られる。
『戦後史の正体』で、こう書いている。

 《一九五一年九月八日のサンフランシスコ講和条約では、「日本国は千島列島に対するすべての権利、請求権を放棄する」とされています。
 吉田首相は調印直前の九月七日、「択捉
、国後両島が「千島南部」であると認めています。》P171

 ここまでは間違いはない。ところが、ここに、一九五六年の日ソ交渉で、全権大使(外務大臣)の重光葵が登場すると、途端に怪しくなる。

 《こうした前提のもと、一九五六年の日ソ交渉で重光外相は、日ソ国交回復を成功させるためには「択捉、国後の放棄もやむをえない」と判断します。(中略)
 ところがそうした日本政府の方針に対し、なんと国務長官になっていたダレスが重光外相に圧力をかけ、「もし日本が国後、択捉をソ連にわたしたら、沖縄をアメリカの領土にする」と猛烈におどしてきたのです。》

 さて、「この記述には重大な事実誤認がある」と指摘したのは、孫崎享と同じく外務省出身の作家・佐藤優
ある。(「尖閣諸島北方領土をめぐる孫崎享氏の奇妙な見解」「伝統と革新」一〇号、平成25/1/10)
 つまり、孫崎享は、重光葵と日本政府が一体になっ交渉に当たっているかのように書いているが、そうではない。日本政府と重光葵の間には大きな断絶と対立があった。ソ連側の強硬姿勢に腰砕けになり、「四島返還」から「二島返還」に変更したのは重光葵の独断である。その重光葵の独断専行に対して鳩山一郎首相を中心とする日本政府は怒り、直接鳩山一郎が交渉に乗り出すことになったからである。
 佐藤優によると、重大な事実の誤認と隠蔽とは、「ダレスの恫喝」の時間にある。孫崎享は、重光葵に賞賛・共感し、美化するあまり重光葵の実際の選択と行動を無視している。
 まず
当時の鳩山一郎首相をはじめとした日本政府の方針は、「四島返還」。しかし、鳩山一郎の元々の主張は、まず「二島返還」を実現し、他の二島返還交渉は「後に残す」というものであった。
 ところが、重光葵は、「四島返還」を強行に主張していたにもかかわらず、ソ連側の強硬姿勢に腰砕けになり、独断で「二島返還で妥結」という方向に方向転換する。
 「ダレスの恫喝」は、確かにあったが、この時点ではない。重光葵が全権大使として「二島返還論」に方向転換し、鳩山一郎と日本政府との意見対立が鮮明になって以後である。
 この日ソ交渉で「全権」をつとめた松本俊一は、13日午後、鳩山総理の出席の元で臨時閣議が開かれ、重光葵の「ソ連案による平和条約の締結」が、否決・拒否さ
れたことを証言している。


《十三日午後、軽井沢の鳩山総理の出席を得て臨時閣議を開いて、正式に最終的態度を決定することになった。次いで十三日、鳩山総理から重光全権あてで「この際直ちにソ連案に同意することについては閣内挙って強く反対し、また国内世論もすこぶる強硬であると判断されるについてはソ連案に同意することは差し控えられ、貴全権は直ちにロンドンに赴かれたい」旨の訓電に接した。》(松本俊一『日ソ国交回復秘録 北方領土交渉の真実』朝日新聞出版、2012)


 知ってか知らずにか、明らかに重光葵は嘘をついている。あるいは事実誤認がある。この時点では、鳩山一郎内閣は、重光葵の「二島返還で妥結」論を認めていない。
 要するに、確かにダレス
の恫喝はあったが、ダレスの恫喝はその後、8月19日のことである。順番が逆である。
  
 さらに、『CIAと戦後日本』で、「重光葵はなぜ日ソ交渉で失脚したのか」という一章をもうけて、この問題を深く追求した有馬哲夫も、重光葵の行動を批判的にとらえている。

《四島返還を唱えていた重光は、ソ連の強硬姿勢の前にたちまち態度を軟化させ、二島返還で勝手に交渉をまとめようとした。
これを当時のメディアは重光の豹変として書き立てたが、CIAはすでに重光がそうすることを予想していた。これまでCIAが調べ上げてきた重光の行動パターンからして、そうする公算が大きかったからだ。(中略)
 重光は河野にその責めを負わせることができたので、いよいよ二島返還で
妥結しようとしたが、ひとまず二島返還で残りの二島は後回しと考えていた鳩山はこれを許さなかった。そこまで妥協しては、吉田派を初めとするソ連強行派をなだめることができないと思ったからだ。》
(『CIAと戦後日本』)

重光葵の「二島返還」は、鳩山一郎の「まず二島返還、たの二島は後回し」という二段階論につぶされたのである。

《そこで、鳩山本人が河野を引き連れてモスクワに乗り込み、直接交渉することになった。そして、シベリア抑留者の帰還、日本の国連加盟の承認、歯舞・色丹二島の返還(残りの二島は引き続き領土問題として話し合う)を条件に日ソの国交を回復することにした。
実はこれはすべて「早期妥結を望む」と五五年初めの段階で声明を出していた鳩山が
示していた条件そのものだった。重光はまったく無能で役にたたない外務大臣だということをこれまで以上にはっきり示す結果になった。
鳩山はこの日ソ国交回復交渉を花道にして政界から引退した。》
(『CIAと戦後日本』)

さて、ふたたび、「ダレスの恫喝」に戻る。佐藤優は、こういう。

《ダレスの恫喝によって日本政府の方針が変更されたという孫崎氏の解釈は、事実に反している。》
《ダレスの恫喝は、日本政府が歯舞群島色丹島の二島引き渡しで妥協するという重光氏の方針を日本政府が明確に否定した後の1956年む8月19日の出来事だ。》
重光葵外相が、一時、歯舞群島色丹島の引き渡しのみで平和条約を締結しそうになったのを、松本俊一全権や鳩山一郎首相
が止めたので、孫崎氏が述べる、「択捉、国後についてはあきらめる」という「日本政府の方針」が定められたことはない。》(佐藤優P)


要するに、孫崎享は、「吉田茂/重光葵」「米国追随派//自主独立派」という二元論的図式に当てはめようとするあまり、重光葵の失態という「日ソ交渉」における歴史や事実を歪曲し、隠蔽しているのだ。



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