文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

唯物論的転倒の哲学ー柄谷行人論序説(「15)

村上春樹の文学こそ「安酒の文学」である。
最近の文芸誌や新聞などを読んでいても、作家や批評家の書いたもののなかで、あまり深い関心を持つ文章に出会うことがない。思想的に刺激的な文章がないからだ。たとえば先ごろ、ノーベル文学賞の有力候補ということで、世界中でその言動が注目されていた村上春樹の文章「魂の行き来する道筋」が、ノーベル賞受賞を意識しているかのように、朝日新聞の第一面と第三面の紙面を飾ったが、その文章を読んで失望せざるをえなかった。日本と中国の間に突然沸き起こった、いわゆる「尖閣問題」や「反日暴動デモ」、そして中国の日本書籍の発売中止・・・などに対する感想文なのだが、村上には、国境問題や領土問題、あるいはその背後にある国家論やナショナリズムの問題への関心は絶無のようで、自分の作品が中国の多くの書店の店頭から消えたことを憂慮し、もっぱら日中間の文化交流を途絶えさせてはならないという趣旨の文章なのだった。「領土問題が『感情』に踏み込むと、危険な状況が出現する」と。そして、こう書いている。


≪それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くなければならない。1930年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなく
てはならないだろう。政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場にたたされた個々の人間なのだ。≫


 私は、この文章を読むまでもなく、「イスラエル演説」をはじめ、最近の村上春樹の綺麗ごとを並べただけの「政治的言動」に疑問を感じていたので、「またか」と思っただけであった。明らかに「ノーベル賞対策」の毒にも薬にもならない美文である。結局、ノーベル賞は中国の「莫言」の受賞ということになったわけだが、異論もあるだろうが、私には「村上春樹落選」は当然のことだろうと思われる。朝日新聞が、第一面のトップで「村上春樹発言」を大きく取り上げたことも、私にはその意図がまったく分からない。
  さて、先月の柄谷行人論を続けよう。柄谷行人は、「秋幸あるいは幸徳秋水」(「文学界」10月号)で、中上健次村上春樹を比較して、村上春樹の文学の世界的成功の背景には、「忘れてはならないならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒、つまり国木田独歩的な転倒、言い換えれば「風景の発見」があると、こう書いている。


中上健次が死んだのは、1992年です。それはソ連が崩壊して一年後です。その後に、いわゆる資本主義のグローバリゼーションが起こった。別の言い方をすれば、新自由主義が広がった。「中上没後20年」というのは、それが深化してきた過程にほかなりません。この間に、中上健次に代表されるような文学は消えてしまい、村上春樹に代表される文学の方向に進んだ。(中略)ふりかえってみると、それは、北村透谷の死後、日本の近代文学が形成された過程と似ています。先に私は、国木田独歩の『忘れえぬ人々』を例にとって、そこに、「忘れてはならないならない大事なもの」に対して、「どうでもよいが忘れられないもの」を優越させるイロニー的転倒があるとことを指摘しました。≫


柄谷行人のこの分析は、ものの見事に、村上春樹の文学の特質とその時代の本質をとらえている、と私は思う。村上春樹の「尖閣発言」は、それを端的に具現していると言わなければならない。柄谷行人は、村上春樹の『1973年のピンボール』から、次の文章を引用している。


≪「あなたは二十歳の頃何をしていたの?」
 「女の子に夢中だったよ」一九六九年、我れらが年。
 「彼女とはどうなったの?」
 「別れたね」≫


明治20年代の国木田独歩による「風景の発見」にも、明治10年代の「自由民権運動」という政治的な背景があったが、村上春樹の場合にも、60年代の「新左翼学生運動」が背後にあった。それをイロニーによって否定し、抑圧・隠蔽することによって「風景」が発見された、と柄谷行人は言う。明治時代には、その後、幸徳秋水らが死刑判決を受け、処刑された「大逆事件」があり、中上健次は故郷の新宮との関係から、この大逆事件に深い関心を寄せ、「秋幸」という主人公が登場する『枯木灘』という小説を書いたが、「秋幸」は、大逆事件の主役、幸徳秋水の名前と無縁ではない。
いずれにしろ、文学の背景には、たとえ、まったく無縁に見えようとも、政治や思想が隠されている。たとえば、柄谷行人は、「311大震災原発事故」と「足尾鉱山鉱毒事件」との類似性に注目して、両者を比較している。さらに新自由主義についても、日清日露戦争の時代と比較しつつ、新しい解釈を行なっている。今、世界中に吹き荒れる「新自由主義」を、「新しい帝国主義」だと分析する。尖閣諸島の「軍事衝突」「日中戦争」の可能性も、この「新しい帝国主義」の時代という側面から分析すると、その本質が見えてくるように思われる。何故、柄谷行人の思考は、常に過激で新鮮である。

■文学や哲学を知らずして、政治や経済を語るなかれ。
  柄谷行人は、ウォーラーステインの「世界システム論」「ヘゲモニー国家論」を援用しつつ、現在の世界情勢をこう説明している。


ウォーラーステインによれば、ヘゲモニー国家が成立するのは、まず製造部門での優越によってであり、そこから、商業部門や金融部門での優位に及ぶときです。この三つの分野すべてで優位にたつのは、難しい。短い期間だけです。このことは、ヘゲモニーが製造部門において失われても、商業や金融において維持されうるということを意味しています。たとえば、オランダもイギリスも、生産の次元で没落したのちも、商業や金融において長くヘゲモニーを保持した。じつは、1990年代以降のアメリカがそうです。「自由主義的」というのは、圧倒的なヘゲモニー国家の経済政策だと考えてみると、アメリカが自由主義であったのは、むしろ、1970年以前であったということが明らかです。(中略)このような見方に
よれば、アメリカがヘゲモニーを握った1930年以後は「自由主義的」な段階であり、1990年以後、アメリカが没落しはじめた段階は、「帝国主義的」な゜段階です。≫


 我々は、安易に「新自由主義批判」を繰り返すが、しかし、新自由主義の恐ろしさを知らない。自由主義新自由主義の差異もそれほど意識していない。新自由主義という経済政策は、生産部門において没落したヘゲモニー国家が生き残ろうとして、商業部門と金融部門で、世界中を相手に必死の巻き返しを狙う政策であって、それは、自由主義とは全く異質なものであり、まさしく「帝国主義的」と呼ぶにふさわしい。こういう観点から、柄谷行人は、明治20年代(1890年代)と現在が類似していると分析する。つまり、現在の東アジア情勢も、日清・日露戦争の時代の東アジアの地政学構造と類似しているという。とすれば、尖閣諸島竹島をめぐって、領土・国境問題が過熱化していくことは、特定の政治家や論
客が、気まぐれに扇動している疑似問題ではないと言うことになる。むろん、村上春樹には、そこが見えていない。村上春樹だけではない。多くの政治学者にも経済学者にも、そして軍事評論家にも、現代と言う時代の歴史的本質は見えていない。目前の些末な情報や現象に振り回されているだけである。
さて、何故、柄谷行人という文藝評論家が、どのような政治学者よりも、また軍事評論家よりも、鋭く東アジアの政治状況を分析・解明することが出来るのかを不思議に思うかもしれない。むろん、私はそうは思わない。「文学や哲学を知らずして、政治や経済を語るなかれ」をモットーとする私から見れば、それは当然のことである。私が、現在、読むに値する本物の思想家は、柄谷行人しかいないと考えるのは、そこに根拠がある。
柄谷行人とは何か。柄谷行人は「文芸評論家」としてデビューし、そして文芸評論家であることに存在意義を認めている。マルクス論やマルクス研究をはじめ、哲学や経済学の分野で仕事をしているにもかかわらず、柄谷行人は文芸評論家という肩書きに固執している。西部遵が「評論家」という家業を卑下し、賤業扱いしているのと大きな違いである。柄谷行人は、哲学と批評について、面白い解釈を行っている。つまり。日本では、哲学と哲学者の役割を、文芸批評と文芸評論家が担ってきたというのである。
広松渉との対談で、こう言っている。


《ぼくは昔から哲学を哲学的にやるということがどうしてもできなかったのですね。今でも、哲学者というものをどこかでいかがわしく思っているところがあるんです。(笑)たとえば日本の哲学者が、言語についてある深い考察を持っていたとしても、その人の文章がいかにも貧しく鈍感であるならば、その人は何も考えてこなかったのだとぼくは思うのです。それはごまかしのきかないものだと思います。そして、それは実は日本でものを考えるということの困難とつながっている。ぼくの偏見では、西田幾多郎を例外にすると、日本の哲学はむしろ文藝批評家にあったのではないかと思うのです。西欧ではけっしてそうではない、哲学者の方がすぐれた批評家だったといってよいかもしれません。》(『現代思想』1
978年8月号「共同主観性をめぐって」)


柄谷行人が、「意識と自然」という漱石論で、「群像」新人文学賞を受賞して、文藝評論家としてデビューしたのは、1969年、28歳の時である。私は、この時から、柄谷行人を読み続けている。柄谷行人は、今からは、想像しにくいが、小林秀雄江藤淳吉本隆明・・・という文藝評論家たちを中心的に論じる批評家だった。しかし、そこには、文学や文学批評にとどまらない何ものかを持っていた。柄谷行人が、広松渉との対談で、「文藝評論家こそ『哲学者』ではないのか」と言っている意味が、私にはよく理解できた。柄谷行人を、今は、文藝評論家というよりは哲学者、あるいは思想家と呼ぶべきかもしれない。しかし、柄谷行人自身は、文藝評論家であることに固執している。「文藝評論家・柄谷行人」について、もう少し考えてみたい。


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