文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ニコライ・スタヴローギンの帰郷。清水正の「悪霊論」三部作を読む。

私は、ドストエフスキーを読むことは好きだが、ドストエフスキー論やドストエフスキー研究の論文を読むことは、わずかに小林秀雄を除いて、嫌いだ。
ドストエフスキーのテキストは底知れない深さを持っている、と清水正氏は言うが、江川卓の『謎解き』シリーズをはじめ、ドストエフスキー論やドストエフスキー研究の論文には、そういう深さが欠如しているように思われるのだ。私は、その「深さの欠如」したドストエフスキー論やドストエフスキー研究が嫌いなのだ。つまり知識としてのドストエフスキーなら、読む気がしないのだ。
では、例外的に、小林秀雄ドストエフスキー論を読むのは、何故か。
小林秀雄ドストエフスキー論には、知識としてのドストエフスキーではなく 、小林秀雄自身の内在的論理、内在的思考としてのドストエフスキー論があるからだ。つまり、私にとっては、小林秀雄は、ドストエフスキーの深さに匹敵する思考の持ち主だからだ。
清水正教授に、かなり以前に、ドストエフスキー論やドストエフスキー研究のすべての著作や論文を、いただいたのだが、そして清水正が、我が国でドストエフスキー研究の第一人者であることを、もちろん、認めながらも、読まなくてはと思いながらも、なかなか読めなかった。
清水氏のドストエフスキー論が読めるようになったのは、つい最近だ。そのきっかけは『悪霊』論三部作だった。
たとえば、清水氏は、「ニコライ・スタブローギン」の数々の乱暴狼藉、つまり「悪」について、「漫画チック」「大げさな」「ニコライを神話化するような見え透いた作者の意図が伺える」「わざとらしい」と言う。なるほど、そう言えば、そうだ。ニコライ・スタブローギンの「決闘」や「放蕩」は、老婆二人を斧で撲殺したラスコーリニコフの「悪」にも遠く及ばない。清水氏は、ニコライ・スタブローギンの「悪」は、母親への犯行=反抗と読み解いている。つまり、ラスコーリニコフが「母親からの自立」「母親の切断」、つまり「母殺し」に成功したのに対し、ニコライ・スタブローギンは「母殺し」に失敗し、未だに母親ヴァルバーラの支配下にある「永遠の子供」「永遠の少年」だと清水氏は分析する。
これだけなら、そのテクスト分析の鋭さを認めたとしても、分析内容は別に驚くべきことではないかも知れない。これもまた知識にすぎないからだ。 しかし、清水氏の最近の著作『林芙美子屋久島』を読むと、「母親殺し」という問題が、単なる知識ではないことが分かる。
丁度、清水氏がドストエフスキー論を書き続けていた頃、清水氏の母は、癌で死の床に伏していたという。清水正もまた、母親の期待を一身に集めていた「母親っ子」であった。母親の看病を続けながら、清水氏は、ドストエフスキー論を書き続けていたのである。
そいいう前提を認めたうえで言うと、清水正の『悪霊』論三部作には、清水氏の「母親の死」が隠されている。つまり、清水氏の「母殺し」論は、単なる知識ではなく、清水氏の「内在的論理」「内在的思考」に貫かれているということだ。
私は、このことを知った時、はじめて、清水氏のドストエフスキー論が読めるようになった。
さて、私は、今、この文章を、鹿児島県の片田舎にある私の実家=生家で書いている。言うなれば、私の「スクバレーニシキ」である。すでに母も父も亡いが、私もまた、溺愛する「母親の呪縛」を感じながら、育った。清水氏の悪霊論三部作を読みながら、「母親っ子」であった自分を思い出す。


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