文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

兄の思い出。

兄・仏淵浩(ほとけぶち・ひろし)が危ないと、兄の長女から連絡があったのは、ちょうど、新著『それでも私は小沢一郎を断固支持する』を書き上げ、ゲラ校正ももう少しで終わろうとする日の早朝であった。兄は、わずか三歳違いだが、物心のついた少年時代の日々から今日まで、僕の人生の良き先導役だった。僕の前には、いつも兄がいた。僕は、先生たちの話より兄の話を聞きながら成長して来た。兄は、僕の人生の目標だった。喧嘩と仲直りを繰り返しながら、一卵性双生児のように生きて来た。鶴丸高校から早稲田大学理工学部へ進学した兄は、勉学は勿論、野球から駅伝競走まで、スポーツも万能で、尊敬出来る自慢の兄だった。だから、僕は、高校も大学も、兄の後を追いかけて来た。鶴丸と甲南、早稲田と慶應、理系と文系・・・と進路は微妙に擦れ違ったが、思うところは同じだった。兄が大学受験に失敗し、東京で浪人生活を送るために上京することになった時は、その頃の兄の行動力には感服したものであるが、高校生になったばかりの僕が見送った。そして僕も、3年後には兄を追いかけて、東京を目指したのである。その兄が危篤状態だということで、ゲラ校正が終わるとすぐに、最後のお別れがしたくて、帰郷してきた。石原慎太郎に『弟』という小説がある。弟・裕次郎との思い出を綴った小説である。むろん、僕の兄は、無名の「一市井人}にすぎない。書くに値するような華々しい人生があるわけではない。だが、兄の存在なくして現在の僕はない。だから、僕も、兄の人生を、少しでも書き残しておきたいと思う。「私(兄)は、このように生きてきたのです」(夏目漱石『こころ』)と。鹿児島市内の天保山にある「鹿児島厚生連病院」というところに、兄は入院している。鹿児島市内を流れる甲突川が錦江湾に流れ込む河口にあり、目の前に桜島錦江湾が広がっている。二三年前から、兄が入退院を繰り返している病院なので、僕も馴染みの病院である。病院前には、天保山公園があり、美しい松林が広がっている。この周辺は、錦江湾沿いで、美しいところだが、僕自身はまったく立ち入ったことのない未知の領域だった。その松林の一郭に、小さな調所広郷銅像が立っている。最初は、誰の銅像なのかまたくわからなかった。車道の脇にあるので、誰だろうと思い、車を降りて銅像を調べてみると、なんと、幕末の薩摩藩の財政改革に功績のあった調所笑左衛門だった。調所は、藩政改革で功績を挙げ、明治維新の財政的基盤の再構築に貢献したにもかかわらず、藩主後継争い、つまりお由羅騒動で、島津久光一派として、島津斉彬を中心に西郷、大久保ら明治維新中心勢力となる一派と対立し、島津斉彬が藩主となるや、江戸で服毒自殺している。明治維新以後の斉彬、西郷、大久保中心の鹿児島の歴史からは抹殺されていたが、最近、再発見、再評価されるようになり、その財政家としての手腕と功績は、各方面で注目されている人物である。いずれにしろ、何事もなければ、素晴らしい絶景ポイントというところだろう。(続く)

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