文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

旅順港を眼下に見下ろす白玉山山頂の「表忠塔」。東郷平八郎と乃木希典が、日露戦争戦死者を慰霊するために建てた慰霊塔。蝋燭の形をしている。素材は乃木希典の故郷、徳山の花崗岩が使われている。現在は、「白玉山塔」と呼ばれている。ところで、日露戦争は、われわれにとって「歴史」や「物語」の世界の出来事に過ぎないが、旅順に来てみると、それが、「血と涙の生きた歴史」であることを実感する。とくに「伊地知」や「鮫島」・・・などの名前を見ると、日露戦争に出陣した僕の故郷、鹿児島の青年軍人たちの多くが、ここに眠るのかと思い、感無

昨年か一昨年、NHK司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放送されたらしく、その影響もあって、最近、旅順への日本人観光客が3倍か4倍に増えているそうだ。テレビで放送されると、そこがすぐ観光名所になる。最近の日本人の精神の貧困化、思想的レベルの劣化を象徴する話だ。僕は、司馬遼太郎が嫌いである。司馬遼太郎日露戦争の解釈には、ノモンハン事件の解釈・評価がそうであったように、間違いや、根拠のない独断・偏見が少なくない。司馬遼太郎は、「坂の上の雲」で、乃木司令官、伊地知参謀長を批判的に描いている。特に伊地知幸介参謀長を、「頑迷固陋」の無能な愚者と描いている。秋山兄弟や正岡子規を「美化」「賛美」する一方で、伊地知幸介参謀長を、その対極に位置ずけ、「無能」と貶めて描いたというわけだろう。果たして、司馬遼太郎の伊地知参謀長への解釈に間違いはないのか。これが間違いだらけなのだ。
日露戦争で活躍した東郷平八郎と伊地知幸介はともに薩摩出身の有能な軍人である。薩摩には、「義を言うな」という言葉がある。「屁理屈を言うな」「言い訳をするな」「言葉より実行・実践を」・・・というほどの意味である。今でも、鹿児島の子弟教育(郷中教育)の言葉として根強く残る言葉である。たとえば、最近の小沢一郎に対する評価を、つまり「小沢一郎バッシング報道」を見ていると、僕は、いつもこの言葉を思い出す。小沢一郎という男も、「屁理屈を言うこと」「言い訳をすること」を拒絶する男である。政治家・小沢一郎の生き方には、鹿児島・薩摩に、今も残る「義を言うな」の精神に通じるものがある。それが、「小沢一郎バッシング報道」につながっているように思われる。ちなみに小沢一郎の尊敬する人物は、薩摩出身の大久保利通であるらしい。大久保も、無口で、ただ実行あるのみの政治家だった。むろん、僕は、無口な硬骨漢・小沢一郎が好きである。
さて、伊地知幸介参謀長への悪評であるが、「義を言うな」の精神とともに育った伊地知も、留学経験もあり、特にフランス語などは通訳もこなすほど達者で、頭脳明晰であったにもかかわらず、無口な硬骨漢であった。司馬遼太郎のような薄っぺらな近代主義者には、こういう人物が「無能」「愚昧」に見えるらしい。漫画的・図式的な人物表現を得意とする司馬遼太郎の描き方にこそ問題がある。伊地知は、司馬遼太郎によって次の様に描かれている。

『多年ドイツの参謀本部に留学していた人物で、しかも砲兵科出身であった。砲兵科出身の参謀長でなければ要塞攻撃には適任ではないであろう。ところがこの伊地知が、結局はおそるべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる吸血ポンプのようなものになった。』


『有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。』


乃木希典の最大の不幸は、かれの作戦担当者として参謀長伊地知幸介がえらばれたことであった。乃木に選択権があったわけではない。陸軍の首脳がそれをえらんだ。』


『旅順における要塞との死闘は、-(略)-もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう。』


『旅順の日本軍は-(略)-ののしられている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘のかぎりをつくしていた。一人の人間の頭脳と性格が、これほど長期にわたって災害をもたらしつづけるという例は、史上に類がない。』


『この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。兵も死ぬであろう。』


『司令部の無策が、無意味に兵を殺している。貴公はどういうつもりか知らんが、貴公が殺しているのは日本人だぞ』(児玉源太郎の発言)

(司馬遼太郎坂の上の雲』より)

これらはすべて、伊地知幸介参謀長に対する言葉である。いやはや。司馬遼太郎の「善玉・悪玉史観」も、「有能・無能史観」も、ここまで来れば、別の意味で、見上げたものである。戦争にしろ革命にしろ、あるいは日常の争いごとにせよ、これほど、単純な二元論によって成り立つことはあるまい。人間も戦争も、もっと複雑怪奇なものだろう。司馬遼太郎には、あるいは最近の日本人には、「人間とは何か」というような根本的な問題意識が欠如している。ドストエフスキー夏目漱石が「人間は謎だ」とみた深い思考力が欠如している。
司馬遼太郎は資料読みとして知られているが、実は、資料重視の研究者や作家は、しばしば資料に騙される。その典型が司馬遼太郎である。司馬遼太郎が手に入れ、信用した資料そのものに問題があったことが、今では分かっている。司馬遼太郎が活用した資料は、乃木希典や伊地知幸介とは犬猿の仲であり、対立していた井口省吾満州軍参謀や長岡外史大本営参謀次長の書簡や証言を元に、井口省吾陸軍大学校長時代の教え子・谷寿夫が書き残した「日露戦史」である。要するに、司馬遼太郎が依拠した資料は、伊地知幸介参謀長と犬猿の仲であった満州軍参謀・井口や長岡外史大本営参謀次長の書簡を元資料にした「戦史」である。彼らは、2003高地攻撃の主力部隊第3軍ではない。井口省吾満州軍参謀は、その後、長く陸軍大学校の校長を務めたために、その戦史の影響力は強かったが、現在では、その戦史は、歴史的事実に合わないものが多く、否定されていることが少なくない。つまり、司馬遼太郎が依拠したはずの資料が、かなりいかがわしいということが、現在では、分かっているのだ。司馬遼太郎に、「人間とは何か」という根底的な思考力があれば、そんなに単純に資料に騙されることはなかったはずである。
伊地知幸介参謀長と井口省吾満州軍参謀の関係は、小沢一郎野中広務の関係でもある。野中広務も大量の自伝的書き物を残しているが・・・。戦史ものや自伝を書き残す軍人や政治家にロクな人物はいないというのは、古今東西、変わらぬ真実である。



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