文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「小沢一郎裁判」と「ポスト植民地主義時代」の政治構造。

小沢一郎裁判の判決の日が近づいてきた。小沢一郎元秘書・石川智裕議員を取り調べた田代検事の捜査資料捏造事件から、検察が起訴できなかった小沢一郎を、無理矢理、「強制起訴」に持ち込んだと言われていた検察審査会だが、最近になって、その検察審査会が実は開催されていなかったということが、つまり検察審査会の議決は架空議決だったという事実が暴露されるなど、言い換えれば、驚くべきことだが、11名の検察審査会メンバーは、実は存在しないことが、関係者の証言や資料の分析などから明らかになり、小沢一郎を有罪とする根拠は、ほぼゼロになっている。おそらく無罪判決しかありえない裁判だろうが、だが、それでも小沢裁判の判決がどうなるかは、予断を許さない。つまり、小沢一郎裁判のドタバタ喜劇が、次々に明らかにしたものは、日本の検察や裁判がとても常識では考えられないものに堕落しているということであった。小沢一郎裁判が「政治裁判」であると言われる所以である。僕は、この政治状況は、やはり植民地主義、あるいはポスト植民地主義という観点から見なければ、事の真相は見えてこないと考える。確かに日本は敗戦(終戦)直後の占領時代を経て、法理論的には独立し、植民地ではなくなっている。しかし、どうも、日本が独立国であるというのは幻想である。形式的には、あるいは理論上はともかくとして、実質的には、未だに植民地支配されているというのが、日本の現在である。つまり、占領軍による直接支配としての「植民地主義的」支配ではないが、情報統制や思想統制、文化統制・・・という「ポスト植民地主義的」という巧妙な仕方で支配されているということである。そこで、何故、政権交代の立役者である小沢一郎が、狙われたのか。何故、小沢一郎が強制起訴され、法廷の場に引き摺り出され、長引く「小沢一郎裁判」なるものによって政治活動を妨害されなければならないのか、というような問題の謎が浮かび上がる。むろん、それは、小沢一郎という政治家がどういう政治家であるかという問題と無縁ではない。小沢一郎が、厳密に言えば、小沢一郎のみが、「日本独立」という問題と真剣に向き合っている政治家だからではないのか、ということである。つまり、小沢一郎を潰しさえすれば、日本の植民地支配など簡単なものである、と考えているということだろう。それは、『閉ざされた言語空間』で、米軍の占領政策と検閲を、実証的な資料分析の積み重ねの上で、批判し、告発した江藤淳が、その一方で、小沢一郎という政治家に熱い「期待」と「信頼」を寄せたということと関係している。江藤淳小沢一郎、この二人は、「ポスト植民地主義時代の政治構造」という問題を共有している。江藤淳小沢一郎も、決して反米主義者ではない。しかし、二人は、ともに、日本の「独立」や日本の「自立」を模索する思想家であり政治家だった。(続く)



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