文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「ドラえもん」を哲学的に読み解く。

この前の日曜日(4/15)に、池袋コミュニイィカレッジで行われた清水正日大芸術学部教授の「ドラえもん」講座を聞いた。これが、実に面白く、また哲学的に深い分析で、「たかが漫画・・・」を、ここまで深く読み込むとは、「清水正は天才である」と思わないわけにはいかなかった。普段、漫画というものと無縁だった僕としては、日本の漫画の底深さを、あらためて思い知らされると同時に、漫画を読むということにも、それなりの才能が不可欠だと思い知らされた。清水正ドストエフスキー研究者である。ドストエフスキーの翻訳者ではない。翻訳者が大きい顔をするのが、我が国の外国文学研究である。その意味で、清水正ドストエフスキー研究は、研究者レベルでは無視されてきた。しかし、清水正は、その膨大なドストエフスキー研究を集大成した「ドストエフスキー論全集全10巻」なるものを定期的に出し続け、もはやドストエフスキーを語るものの中で、だれも清水正の存在を無視できないという状況を作り出している。その清水正が、ドストエフスキーではなく、漫画「ドラえもん」の解読を試みたのが、今回の「ドラえもん」講座である。換言すればドストエフスキー研究家の目で、「ドラえもん」を読むとどうなるか、というわけだ。清水は、まず漫画の第一番目のコマを精読し、「のび太」の現在の状況を分析する。実は、その一コマの絵から、「のび太」が、救い難い絶望的な状況に追い込まれた、哀れな少年であることが明らかにされる。「勉強もできない」「スポーツの才能もない」「芸能の才能もない」・・・そんな八方塞がりの気の毒な少年が「のび太」である。さて、そこで、下の絵を見ていただきたい。「のび太」は、綺麗に整理整頓された自分の部屋で、寝転がって餅を食べている。そのセリフ。「のどかなお正月だなあ」「今年はいいことがありそうだ。」・・・。いかにも、のどかな、幸せそうな風景である。だが清水は、このセリフから、のび太の現在の深刻な状況を読み解いていく。つまり、のび太が、「今年はいいことがありそうだ。」というのは、実は、「今年も・・・」ではなく、「今年は・・・」と言っていることに注目すれば、去年も一昨年も「何もいいことがなかった」ということを意味している。そしてその証拠に、二コマ目に、何処からか「いやあ、ろくなことがないね。」という声が聴こえてくる。三コマ目には、「野比のび太は三十分後に首をつる。」。四コマ目には「四十分後には火あぶりになる。」と続く。のび太の悲惨な運命が、何者かによって、次々と予言されるのである。これは何を意味するのか。のび太の運命は、去年も一昨年も、そして今年も将来も、「ろくなことがない」ということであろう。この悲惨な運命の予言に対して、のび太は立ち上がり、「だれだ、へんなことをいうやつは。」「でてこいっ。」と大声で叫び、運命の予言に抵抗する。そしてそこに、のび太以外に誰もいないはずの部屋で、「ゴト、ガタ、ゴト」という音とともに、奇妙な丸い生き物が、机の引き出しから登場する。この奇妙な丸い生き物が、「ドラえもん」である。ドラえもんのセリフ。「ぼくだけど。」「気にさわったかしら。」・・・。ドラえもんとは何者だろうか。実は、ドラえもんは、もう一人の「ぼく」、つまりのび太の分身、二重人格としてののび太の「もう一人ののび太」なのだ。そしてドラえもんは、のび太に、「ぼくはきみをおそろしい運命からすくいにきた。」とか、「きみは年をとって死ぬまで、ろくなめにあわないのだ。」と告げる。現実の運命は悲惨なものであるが、しかし妄想、幻想の世界では、夢を実現することが出来る。清水正は、ドストエフスキーの『二重人格』(『分身』ともいう訳もある。)を持ち出してきて、「ドラえもん」という漫画が、実は、ドストエフスキーの世界にも通じる問題を孕んでいることを示す。のび太は、実存的危機に直面している少年であり、そこからの脱出を妄想・夢想している夢見る少年として、設定されているというわけである。さて、この実存的危機、あるいは二重人格、自己分裂と言う問題に加えて、そこから、さらに清水正は、『ドラえもん』という漫画が、運命の予言と決定に対して、自由意思、つまり運命の決定への抵抗という問題を内包していることを指摘する。ソフォクレスの『エディプス王』の物語である。「未来」からタイムマシンでやってきた「ドラえもん」にとって、「のび太の運命」は決定されている。もはや変更不可能である。のび太は何年か後に「ジャイ子」と結婚し、たくさんの子供をもうけ、学校を即興すると会社を興すが倒産し、借金取りに追われる・・・。すでにドラえもんの手には、のび太が過ごした人生の記録、つまり「アルバム」さえ握られている。ジャイ子との結婚写真も、押し寄せる借金取りに囲まれた写真もある。現実の運命は終わっている。つまり、時間軸を「未来」から見ると、すべては決定(予言)されている。そこで、のび太は「予言破りの自由」、言い換えれば運命の決定への抵抗を試みる。せめて、夢や妄想の世界でも、楽しい人生が送れたら・・・。そういう儚い、せつない希望と共に『ドラえもん』という漫画は、始まるのだ。ソフォクレスの『エディプス王』の物語が、「産まれてきた子供(エディプス)がその父親(ライオス)を殺し、母親(イオカステ)と結婚する・・・」という「アポロンの神」の予言に、激しく抵抗し、予言(運命の決定)どおりになってたまるか、と自由意思を主張し、つまり 「予言破りの自由」を主張し、産まれてきた子供(エディプス)の殺害を召使に命ずるところから始まるように・・・。ドラえもんのセリフ、「ぼくはきみをおそろしい運命からすくいにきた。」とか、「きみは年をとって死ぬまで、ろくなめにあわないのだ。」とかは、のび太の運命の「決定性と自由」を表現したものである、と清水正は分析している。((続く)


■講演中の清水正日芸教授。↓

清水正ブロhttp://d.hatena.ne.jp/shimizumasashi/20120416/1334585347



■「ドラえもん」の第一頁目の冒頭の「一コマ」。↓





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