文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

早瀬善彦君の書評(岩田温著『政治とはなにか』)が届きましたので、掲載します。ご一読ください。早瀬君は、現在、京大大学院博士課程在学中で、日本保守主義研究会機関紙「澪標」の編集長です。

『政治とはなにか』書評
早瀬善彦(「澪標」編集長、京大大学院博士課程)



 筆者の知る限り、『政治とは何か』と銘打った著作は、今日、後藤田、竹下といった政治家の回顧録などを除けば、ハンナ・アレントの邦訳書しか現存しない。ただし、このアレントの著作も、正確にいえば、彼女の主著『人間の条件』と並行して出版が計画されていた『政治入門』という著作の草稿・断片集にすぎないという点を考えれば、わが国にはこれまで「政治とは何か」という問いを、直接的に主題として掲げた著作は存在しなかったことになる。

 もちろん、タイトルとして明示することはなかったというだけで、政治をテーマとした著作が無数に存在することは事実である。が、そうであるならば、なぜ「政治とは何か」というシンプルな題名を掲げ、この問題を真正面から世に問う本がこれまで出版されなかったのだろうか。これは、本一冊のテーマとしては壮大すぎるからという単純な理由からだけではないと思われる。

 一般に、広い意味での「政治」を研究の対象とする学を政治学とよぶが、この政治学が、法学・社会学・経済学など他の社会科学と比べ、未だ、発展途上の段階にあることは誰しも否定できない事実である。

丸山真男が、社会科学としての政治学の困難さを説いているとおり、今日、誰もが政治というもののふるう巨大な力、政治の吐く荒々しい息吹を身近に感じざるをえないにもかかわらず、否、そうであるからこそ、学問としての発育不良が今日までズルズルと続いてしまったのである。結果として、政治学は、その研究対象である政治それ自体にたいし真剣に向き合ってこなかった。しかも、高度経済成長以降の経済至上主義の風潮がこれに拍車をかけたと思われる。

 ただ、それでもなお、政治という壮大な難問にあえて立ち向かっていくという気概が、いわゆる政治学の研究者たちに欠けていたことは事実であろう。したがって、若い研究者による、ある意味で、無謀な挑戦として揶揄される覚悟はたえずもちながらも、今回、あえて『政治とは何か』という正面突破の手法を用いたことは、日本の政治学研究史上、非常に大きな意義をもったものだといえる。

 さて、文字どおり、「政治」の姿を追求していく本書だが、権力や国家の問題と絡めた考察、あるいはイーストン流の科学的な定義を期待していた読者は、実際の表紙を開いた瞬間、面食らうことになるだろう。なぜなら、冒頭の第一章が、一見、「政治的なもの」とは程遠いシェイクスピアの名作『リア王』の分析を以ってはじまるからである。

しかしながら、賢明な読者であれば、本書を一頁ずつめくっていくごとに、そうしたはじめの戸惑い、驚きが次第に氷解していくことに気づくはずだ。一般に、悲劇的文学としか解されないリア王の悲哀に満ちた物語であるが、著者が指摘するとおり、そこには政治を読み解くための重要なヒントが見え隠れするからである。

 まず第一の注目点は、リアが名君であったというハリー・ジャッファの興味深い評価である。確かに、マクベスなどと比べ、リアのこれまでの統治能力、したたかな策謀は、彼の優れた政治家としての一面を覗かせる。実は、愛情の試験に先立って、領土分配があらかじめ決められていたという指摘などは、その視点の鋭さに驚嘆せざるをえない。(本書、55頁。)

だが、著者も指摘するとおり、より重要な点は、その名君としてのリアが所詮、人の親でもあったという事実である。領土分割をめぐる巧妙な作戦も、結果的には、コーディーリアにたいするリアの感情的な拒絶によって失敗に終わるが、これはすべて最愛の娘コーディーリアから発せられる「父へのいたわりの言葉」を聞きたかったという、極めて個人的な感情の暴走に起因している。
 このように、「物語」の支えさえあれば、『リア王』は悲劇的作品として成立することはなかっただろう。

完全な虚偽、不正にたいしては道徳的な拒絶を感じる一方で、完全な真実を心から受け入れることはできない、人間がそういった矛盾を孕む存在であるかぎり、たえず物語は必要とされる。そしてこのことは、どこまでも冷徹に政治的であり続けられる人間は実際には存在しないという、本書に秘められた裏の論点のいいかえでもある。

 その意味で、第二章で言及される野中広務は、まさにリアと非常に酷似した人物だということが分かるだろう。自身の出自の問題という「真実」に悩み、逆にそれをバネとしながら、非常にしたたかで有能な政治家として大成しつつも、歴史認識の問題になった瞬間に「道徳的」(非政治的)な態度へと変貌する。極めて政治的といわれる野中広務という人物だが、彼もまたどこまでも人間的なのである。

 結局のところ、本書全体に暗示されている最大の主張は、帯にもあるとおり、物語の重要性はもちろん、その物語と冷徹な世界である政治の弁証法であるといっても過言ではないだろう。著者自身が唯一、有効な政治的イデオロギーとして重きを置く保守主義の根幹である「時効」の概念も、突きつめれば、著者がそれまで主張してきた物語と変わるところはない。 

 自分だけが、あらゆる物語から解放された完全に理性的な存在だと信じてやまない浅田彰をはじめとする自称・進歩派知識人もまた、憲法九条などという「物語」に身を寄せていることからも分かるとおり、どこまでいっても、人間はどこか非理性的な存在である。この事実を素直に受け止められるかどうかが、まさに「政治の現実」から顔を背けるかのような態度で乗り切ってきた戦後日本の欺瞞性を脱出するための試金石となるだろう。

 以上の論理を理解すれば、最初にふれた丸山の問題提起への解答も自ずとみえてくる。すなわち、政治は、どうあっても、科学的な手法によっては定義、分析することのできない領域だという単純な事実である。

その意味で、政治学とは、つまるところ、人間学としての要素をつねに内包しなければならない学問だということができよう。アカデミズムの世界に閉じこもった政治学者が決して気づくことのない重要な視点を、本書は提示してくれている。


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