文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「ポスト植民地主義的傀儡政権に堕した野田政権」・・・。「撃論プラス」創刊第一号に掲載した小生の論考の一部を、以下に紹介します。

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野田政権はポスト植民地主義的な傀儡政権である。
・・・山崎行太郎(政治哲学者)
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野田佳彦首相は、支持率が5、60%代の時期ならともかくとして、支持率が30%代を割り、20%台前後に突入しているにもかかわらず、つまり明らかに政権存続の危機に陥っているにもかかわらず、依然として、「TPP参加」「消費税増税」「米軍基地の辺野古移設」等をめぐって「不退転の決意」だの、「私はぶれない」だの、「ネバー、ネバー、ネバー、(ギブアップ)」だのという軽薄、且つ強気の発言を繰り返し、異様に元気で明るい。特に消費税増税にいたっては、日本国民の大多数が反対であるにもかかわらず、異様に元気で、張り切っていられるのは、何故か。普通の神経の持ち主なら、これだけ反対があれば、ちょっと立ち止まって、もう一度、考え直してみようかと迷うところだろう。しかし野田にはその
気配がない。むしろ、かえって反対意見をステップにして、暴走に拍車をかけているように見受けられる。野田の反対意見をものともしない「元気」と「明るさ」の秘密は何処にあるのか。それは、野田政権が、ポスト植民地主義的な傀儡政権であることと無縁ではない。
つまり、これは、野田の「まなざし」が、日本国民に向かっていないということである。言い換えれば、野田の「まなざし」は、かつての占領軍、つまり、今は形式的には独立したとはいえ、かつての宗主国アメリカに向かっているということである。これを植民地主義的な傀儡政権と言わずして、何というだろうか。むろん、植民地主義とかポスト植民地主義と言っても、宗主国アメリカに経済的に搾取されているというような、フランクやサミール・アミン的な「搾取される植民地論」としての「従属理論」のことを言っているわけではない。また私が、「ポスト植民地主義」というのは、エドワード・サイード的な、文化的な差別を問題にする「ポストコロニアリズム」的な意味でもない。あえて言えば、
経済的な従属理論ではなく、法理論的には独立しているが、政治的、思想的に植民地支配されているという「政治的従属理論」のことである。
何故、「ポスト(以後)植民地主義政権」なのかと言えば、それは露骨な植民地主義ではなく、あたかも独立国家という体裁をとりながら、その裏で実質的な植民地主義的な政権運営を、つまり政治的に、且つ法律的には植民地主義ではないが、実質的には植民地主義的な政権運営を行っているという意味で、新しい植民地主義、つまり「ポスト植民地主義」というわけである。
 さて、ここで、参考のために、イギリスによるインドの植民地支配の政治構造を考えてみたい。イギリスは、インドを植民地支配する時、イギリス人による直接支配ではなく、インド人がインド人を支配、抑圧、搾取するという「間接統治」による支配を行なった。つまりインドのエリート層をイギリス本国に留学させ、英語を習得させ、思想的に洗脳した挙句、インド支配の手先として優遇したのである。そこでは、本当の支配者・抑圧者・搾取者であるイギリス人は見えない。植民地支配されているにもかかわらず、植民地支配されていると思わないインド人が少なくなかった。インド独立戦争が困難な戦いを強いられた原因は、そこにあった。当面の敵は、イギリス人ではなくインド人であったからだ。この
「イギリス人化したインド人」というエリート支配層は、インドが独立した後も、依然としてインド社会の支配層として残存している。同じようなことが、日本の戦後社会、とりわけ日本が独立した後の日本社会の支配層にも言えるように思われる。
具体的に言えば、日本の政官界、財界、マスコミ、アカデミズムには、多くのアメリカ留学組がいる。彼らが、日本の政治の中枢を牛耳っていることは明らかである。しかも、彼らは、「イギリス人化したインド人」がそうであったように、日本国民を支配・搾取の対象としてしか考えていない。私は、「TPP参加問題」にしても、「消費税増税問題」や「米軍辺野古移設問題」にしても、それが日本国民を主体とする議論ならば、それぞれ多様な意見や解釈があってもいいと思う。「TPP参加」にしても「消費税増税」にしても、また沖縄米軍基地の「辺野古移設」にしても、その議論の主体が、日本国民ではなく、アメリカという他者であることが大問題なのである。おそらく日本国民の多くは、そのことを理解しは
じめている。菅直人政権と同様に、野田政権も、日本人の魂を、アメリカという支配者に売り渡している、と。野田は、「TPP参加問題」でも「消費税増税問題」でも、不可解なことに、その第一声を外国で、外国人に向かって発している。日本国民に向かっては、曖昧な発言を繰り返しつつ、アメリカなどに向かっては明確な、断固たる決意表明をし、それを既成事実化して、その後で日本国民には詳しい説明もしないままに強制しようとしている。私は、菅直人野田佳彦のこのような「言説の政治学」に興味を持つ。彼らは、アメリカに迎合し、アメリカの支持さえあれば、政権を獲得できるし、政権を維持できると思いこんでいる。まさに、「ポスト植民地主義政権」の典型である。
ところで、野田政権に限らず、小泉政権以後の政権の多くは、安倍政権にせよ、麻生政権にせよ、菅政権にせよ、自民党政権民主党政権を問わず、そのほとんどの政権がポスト植民地主義的な傀儡政権であった。わずかに「政権交代選挙」で誕生した鳩山由紀夫政権を例外として、どの政権も、政権維持のためには日本国民の支持よりも宗主国アメリカの支持を得ることにあくせくしている。小泉内閣の「郵政解散」以後、彼らが、一様に解散・総選挙を恐れて、政権延命策にのみ汲々としていることは、彼らが、日本国民の選挙による投票行動を恐れているということである。つまり小泉以後、どの政権も、国民の支持を得てはいない。むしろ、どの政権も国民の支持を失っているのである。野田政権の限界と
悲劇も、日本国民に見放されているというところにある。
さて、日本国民の多くは、もちろん政治家も学者も知識人、ジャーナリストも、日本は独立国家である、と思っているもしれない。1951年、サンフランシスコ条約にもとづいて、日本は米軍占領下から脱し、表面上は独立を回復したからである。しかし、政権を目前にしたり、政権の地位についてみたりしていると、どうもそうではないということが分かるらしい。アメリカという「巨大な深い闇」が見えるのだろう。そこで、その「巨大な深い闇」を突き抜けて、あくまでも独立国家の政治的リーダーという地位を貫徹しようと思えば、様々な障害に出会うことになる。逆にアメリカという「巨大な深い闇」に屈服し、忠誠、従属を誓うならば、つまりポスト植民地主義的な傀儡政権を受け入れるならば、政権は安泰
であるというわけだ。その結果、ほとんどの独立志向の民族派の政治指導者は、スキャンダルや謀略に巻き込まれ、政治的に抹殺される。近くは、鳩山由紀夫政権が、圧倒的な国民の支持によって誕生したにもかかわらず、沖縄米軍の国外・県外移転にこだわったために、短期間で総辞職に追い込まれたのが、その例である。かつては、ロッキード事件というアメリカ発のスキャンダルに巻き込まれ、逮捕され、裁判闘争の末、政治的に抹殺された田中角栄がそうであったし、今、現在、政権交代で政権奪取に成功したにもかかわらず、「政治資金規正法」による「虚偽記載」という微罪で強制起訴され、マスコミや世論から集中砲火を浴びた挙句、裁判闘争に明け暮れている小沢一郎がそうであろう。

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(以下略)
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