文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

塩見孝也氏との対談の一部です 。残りは、雑誌「利権マスコミの真実」(オークラ出版)でお読みください。

「利権マスコミの真実」(オークラ出版)には、岩田君と横粂議員との対談、適菜収さんの論文・・・だけではなく、京都大学大学院博士課程に在学中で、学術誌「澪標」編集長の早瀬善彦君の「脱原発のカリスマ小出裕章の政治観」も掲載されている。「脱原発のカリスマ」としてマスコミやネットで異常に持て囃されてき小出裕章についての、おそらく最初の「批判」ではないか。早瀬君は、「原発問題」での発言を避けて、フクシマ原発事故以前の小出裕章の政治的発言や前歴を中心に、その政治的言動を批判的に論じている。なかなか鋭い論考である。「小出の基本的な思考は旧態依然とした左翼的思想の残滓によって支配されている。」という批評が象徴している。(以下は、長野駅前の書店「平安堂」で・・・)

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■正反対の思想的ベクトル 
 山崎 僕は年齢的に見れば塩見さんよりも6歳年下ということになりますが、大きく捉えれば同世代と言ってもいいと思います。大学生時代から左翼過激派の指導者としての塩見孝也という名前はよく知っていました。当時から、僕はどちらかと言うと思想的には保守派で、自虐的に「保守反動派」を自称しつつ、左翼学生運動には批判的・冷笑的な立場をとっていましたが、塩見さんのことは、「恐るべき人だな」と、深い関心を持って見ていました。塩見さんは、関西ブントを中心に共産同赤軍派を結成し、その議長として、「組織された暴力」論から、「前段階武装蜂起理論」、「世界戦争宣言」、「世界同時革命論」、「国際根拠地論」などを主張して、1970年前後の左翼運動の歴史に大きな足跡を残しています
。僕は、左翼でも右翼でも安易に自己批判したり転向したり、妥協したりする奴が嫌いです。その意味で、「獄中生活18年」を経てもなお、若いころから思想的一貫性を保持している塩見さんの姿勢には深く共感し、尊敬します。
 塩見さんは、現在も「脱原発運動」などを積極的に展開されているということなので、それらも含めていろいろ話を伺いたいと思います。塩見さんと僕は、実は思想的立場はまったく正反対です。僕は、小林秀雄とか江藤淳、あるいはドストエフスキーハイデッガーなどを読み、彼らの影響を受けつつ文学や哲学などの道に進んできたのですが、特に小林秀雄江藤淳のような保守思想家、保守派文学者たちは、塩見さんからみたらどうですか。


  塩見 感性的には、或いは言語スタイル的には二人とも嫌いじゃないです。特に江藤淳夏目漱石論などは好きですね。


  山崎 やはり、そうですか。僕は、塩見さんの思想活動や政治活動を見ていて思考のスタイルや感性などは似ているのかな、と思っていました。若いころの塩見さんが書いた、赤軍派結成当時の演説原稿などを読むと文学的感性を強く感じます。塩見さんが、凡庸な小市民的な左翼ではないということの証明にもなります。
 小林秀雄江藤淳、そして三島由紀夫も、実は、過激な人です。その思考は、徹底して過激派の思考です。ドストエフスキーに「踏み越え」という思想がありますが、小林秀雄にも塩見孝也にも、思想的立場は違うかもしれないが、そういうドストエフスキー的な「踏み越え」ていく思考があります。小林秀雄の初期の批評にはマルクス主義の影響が深く刻み込まれています。マルクス主義との対決の過程から産み出されたのが小林秀雄の批評であり、小林秀雄的な保守思想です。丸山眞男はそれを『日本の思想』で的確に指摘しています。僕はそれは正しい指摘だと思います。つまり小林秀雄に象徴されるように保守思想も、左翼思想も深いところでつながっている。
 今のいわゆる「保守」と自称する人たちの多くは小林秀雄江藤淳を読むだけの知性もありませんし、興味もないでしょう。彼らは、異口同音に三島由紀夫を絶賛しますが、三島的ラジカリズムとは無縁です。口を開けば中国と韓国、そして小沢一郎の悪口です。昨今の堕落しきった自称保守よりも、知性にあふれた左翼を僕が賞賛する理由もそこにあります。まあ、そのおかげで、ネットの一部の世界からは、僕は左翼だと思われているのですが(笑)
 

塩見 今後、民族派右翼の中にも柔軟な人は出てくるかもしれません。天皇憲法問題、歴史観といった問題は脇に置いて、組めるところは組もうと考えています。僕と一水会顧問の鈴木邦男氏が最初に結びついたのはそういうところでした。
 

■「脱原発運動」の捉え方
  山崎 その塩見さんは今、反原発脱原発運動に取り組んでいますね。経産省の前で脱原発テント村を開いて、福島の人を巻き込んで抗議活動を行っています。


  塩見 理屈の上から言ったら、僕は原子力の平和利用そのものを欺瞞に思っているからです。要するに、原発問題とは、科学と人間の問題です。人類の科学は一直線に進んできましたが、ついに入り込んではいけない道に入りました。これは明らかに金儲けのために、資本家が科学万能主義を繰り込んだ結果です。まずは、戦争のための原爆や核兵器の開発、その次に核兵器を平和的なものに転用するというような論理構造をもってやってきたと思うんですけど、やっぱりこれは踏み込んではならない世界でした。
 

山崎 僕も確かに脱原発運動とか反原発運動そのものには反対ではありません。ただ、懸念するのは、そこに集まってくる人たちの善意を疑うわけではないのですが、その善意が逆に働くときです。「地獄への道は善意の石で敷き詰められている」という現象です。「脱原発文化人」とでも呼ぶべき学者や文化人が、国民の不安感や危機感を必要以上に煽っているのも気になります。たとえば、「福島のために」と言いながら、放射能の危険性を過大に評価して危険性を強調することによって、逆に福島や東北地方の農産物への偏見が生まれる。それが、結局のところ、福島の土地や住民に対する差別みたいなものへ繋がるのではないかと心配するんです。


  塩見 その問題は風評被害と関連しています。確かに、神経過敏になりすぎて、福島関係筋の野菜や生産物は買わないということが現にあることも事実だとは思います。  しかし、幼児を持った母親の気持ちに立てば、そこにはやはり娘や息子達を守ろうとする本能的な動きが作用している。この命が人間の本性であるという極めて当たり前のことを理解しなければ、命を捨ててでも民族や人民に奉仕するということは成り立ちません。命なしの勇敢さとか犠牲心なんて、命の最高価値性を抜きにしてはありえないと思うんで す。それは右翼、左翼に関係なく当てはまるはずです。
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(以下略)


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