文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

東浩紀編集の『思想地図β』の「特集、震災以後」を読む。だいぶ各方面でも話題にもなり、また爆発的に売れているということで、期待して読んだのだが、残念ながら失望せざるをえなかった。テレビや新聞の情報を一歩も出ていないし、むしろ平均的な社会現象をなぞっているだけのように思った。

僕は、今、20、30代の若い世代の思想や批評の動向を知りたくて、集中的に東浩紀やその周辺のもの、あるいは東浩紀以後のものを読んでいる。最近、「週刊読書人」でも若手批評家たちを特集で何回か取り上げていたが、先週、金曜日、授業講義のあと、学生の一人に優秀な者がいて、その辺の情報に詳しいので、学食の片隅で、彼から一時間ほど、懇切丁寧なレクチャー(笑)を受けた。ゲームやアニメなど理解不可能な話もあったが、彼の話によると、やはり、「東浩紀」という存在は圧倒的な存在らしい。東浩紀の本では、『存在論的、郵便的』をはじめ、『動物化するポストモダン』や『ゲーム的リアリズムの誕生』などはかなり以前から読んで、ポストモダンとオタクとライトノベルを強引に結びつける「東浩紀的分析」に教えられることも少なくないのだが、そして「ゼロアカ道場」などで若手批評家を育てたり、ネットや動画などを駆使して批評の場所作りに励んだりというような実践的活動もそれなりに評価できるのだが、イマイチ、「東浩紀そのもの」の正体というか、その批評家としての存在本質がよく理解できなかった。つまり、東浩紀ってホンモノなのかニセモノなのか、という問題である。僕が、思想家や批評家を評価する時の基準は、本質論と現象論が一貫しているかどうか、である。だから、僕は、思想家や批評家が、目の前の瑣末な政治問題や社会問題でどういう議論を展開するかに興味がある。というわけで、若い世代から圧倒的に支持されているらしい東浩紀編集長の雑誌『思想地図β』(「特集震災以後」)もやっと手に入ったので読んでみたのである。東浩紀の批評家、思想家としての資質と才能が、そこで、試されているはずだと思うからだ。さて、東浩紀は、「震災でぼくたちはばらばらになってしまった。」という巻頭言、対談や座談会の司会役として登場している。中でも僕の興味を引いたのは、「和合亮一」という詩人との対談だった。「あー、東浩紀ってこいう奴に関心があるんだ・・・」と思うと同時に、東浩紀の批評家としての限界とその存在本質が見えたような気がした。僕は、今、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるのが、昨日、読んだところに、つまり長男ドミートリーが三男アリョーシャに向かって、婚約者カテリーナとの出会いを語るところに、こんなセリフがあった。「彼女が愛しているのは自分の善行で、僕じゃないんだよ。」このセリフには深い意味がある。おそらく、このセリフの深い意味が理解でき、感動する者と、理解はできても少しも心を動かされない者とがいる。たとえば、東浩紀は、大震災と原発事故以後、福島在住を売り物に「ツイッター」などで勢力的に、明らかに時勢に迎合した「地震詩」「津波詩」(笑)を書き続けている「和合亮一」の文学的行為を高く評価していると思われる。『思想地図β』の最大の売り物が、「和合亮一」の詩であり、対談であることは一目瞭然である。僕は、『思想地図β』に掲載されている「和合亮一」の写真を見て愕然とした。満面に笑みを浮かべているのだ。何故、大震災や原発事故を語るのに満面の笑みが浮かべられるのか。大震災や原発事故は、売れない地味な地方在住の詩人が、世に打って出るためのいいネタにすぎなかったのではないかという疑いを僕は禁じ得ないのだが、東浩紀にとってはそうではないらしい。現実を直視する良心的な詩人・・・ということか。『カラマーゾフの兄弟』を書いたドストエフスキーのように、「彼が愛しているのは自分の詩であって、東北やフクシマではない」と考えることはないのか。文学や思想というものは、もっと遠くまで行くものではないのか。つまりもっと深く考えるものではないのか。(続く)

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