文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

米窪明美の『島津家の戦争』を読みながら、「薩摩藩」「島津家」「鹿児島」について考える。

この所、鹿児島関係の人間に会うことが少なくない。むろん、僕自身が、鹿児島生まれ、鹿児島育ちなのだから、当然と言えば当然なのだが、しかしそうは言っても、いわゆる高校の同級生とか、幼馴染みに会うというわけではないわけで、 つまり鹿児島とは縁もゆかりもなそうな人に、「いやー私は、中高の6年間を鹿児島で過ごしました」とか、「大学卒業後、7年間、鹿児島に住んでいました」とか言われるわけだから、たまたま偶然といえ、何かがありそうな予感がするのだ。実は、「大学卒業後、7年間、鹿児島に住んでいました」というのは、前回、このブログで書いたJAZZーPIANISTの「おきもとけんじ」さん。7年も、鹿児島市内にいたということは、市内には3年間しかいなかった僕より鹿児島の街のことは詳しいということだ。そもそも、僕は、つい昨日までは鹿児島について語ることが好きではなかった 。郷土自慢も嫌いだが、逆に必要以上に郷土を卑下して語るのも好きではなかった。鹿児島と言うと、自然に神経過敏になり、何かとんでもないことを口走りそうで、怖かったのである。しかし、最近、そんなことがどうでも良くなったのだろう。平気で鹿児島生まれだの、鹿児島育ちだのと公言できるようになった。そのせいかどうか。先週、「月刊日本」を叱咤激励する会があったのだが、そこで、たまたま鹿児島に縁のある人たちが、稲村公望さんを筆頭に、数人も集まり、薩摩藩だの、昔、薩摩藩に属していた都城だの、そして薩摩藩に侵略 、制服された奄美や沖縄などについて、さらにはラ・サール鶴丸,甲南、玉龍だのと、超ローカルな話題について、侃々諤々の議論を戦わせたというわけだ。そしてそれが二次会、三次会と続き、最後にラ・サール出身の編集者・佐藤真さんが編集した『島津家の戦争』に行き着いたというわけである。ちなみに佐藤さんは、福岡生まれだが、中高6年間を、つまり多感な思春期の大半を鹿児島で過ごしたそうである。当然、佐藤さんは僕より鹿児島のことは詳しい。というわけで、佐藤さんが贈ってくれたので、『島津家の戦争』を読んだ。これが実に面白い。島津家と言っても、ここの島津家は、都城島津家である。都城は,今は薩摩藩(鹿児島)から切り離され、宮崎県に属しているが、それ故に薩摩藩意識は強い。都城こそ「薩摩の中の薩摩」、ザ薩摩だというわけである。著者の米窪明美さんは東京生まれということだから、いわゆる郷土自慢の書ではない。客観的な薩摩論、薩摩隼人論としても出色である。司馬遼太郎司馬史観を、つまり坂本龍馬史観を完全に無視しているところがいい。たとえば、米窪さんは島津斉彬の弟、島津久光を、資料という客観的データにもとづいて描いている。司馬遼太郎は、確かこの島津のラスト・サムライを、暗愚の将として描き、愚弄していたはずである。たとえば「島津久光の上京」という事件の解釈である。しかし、米窪さんは、兄斉彬亡き後、薩摩藩の実質的な支配者であり、激動の時代の真の殿様であった久光を、内向的で、社交性はなかったが、いつも難解な本を読み、思慮深く、物事を根源的に思考する哲学的な人間として描いている。そして、タイミングを見計らって敢行した「島津久光の上京」こそ、明治維新のターニングポイントであったと解釈している。僕は、はじめて明治維新の真相に触れることが出来たと思った。とはいいながら、僕は、この本でさらに重大な、驚くべき事実を知った。西南戦争の最後の決戦の場面で、島津本家も、都城島津家も、西郷軍にも政府軍にも味方せず、あくまでも中立の立場に立ち、その結果、決戦場となるべき鹿児島市街地から逃げ出し,安全な対岸の桜島に避難し、日和見を決め込んでいたという事実。 僕は、この歴史的事実を、まったく知らなかった。そこで、なんとなく理解できる気がする、鹿児島の少年少女たちだけではなく、大人たちまで、薩摩藩の殿様であった「島津宗家」や、「都城島津家」などへの畏怖も愛着まったくないことが。さらに僕は、この本で初めて、「都城島津家」だけではなく、「都城」全体が、中立の立場に立つとはいいながら、西南戦争における西郷軍の敵であり、むしろ西郷軍の裏切り者であったという事実をを知った。これは、僕のように、鹿児島で育った少年たち にとっては、驚愕の事実である。この本は、関ヶ原の合戦における島津義弘軍の「敵中突破」の物語からはじまる。米窪さんも何回も指摘していることだが、鹿児島、薩摩藩に残る「中世武士道」の本質は、理屈をこね回して、傍観者や日和見を正当化し、現実の闘争を避ける、ずる賢い生き方を、激しく拒絶し軽蔑するところにある。鹿児島の片田舎の山奥に育った僕のような少年でも、高い崖の上から飛び降りる遊びにおいて、「なこかい、とぼかい、なこよか、ひっとべ」という言葉を合言葉にして育ったのである。 司馬遼太郎は、この言葉から、これこそ薩摩の哲学というわけで、薩摩の青春の物語を、「翔ぶが如く」というタイトルにしたのである。つまり薩摩武士の哲学、薩摩に生き残る「中世武士道」は、日和見と傍観者をもっとも嫌う哲学なのである。

(続く)


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