文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

林芙美子の『放浪記』をハイデガー哲学で読み解く。

≪・・・・・・というのも、「存在する」(オン)という言葉を使う時、自分でいったい何を言おうとしているかを、君たちはずっまえからよく知っているに違いないのだが、われわれの方では、ひところでこそそれが分かっているつもりだったのに、今では途方に暮れているありさまなのだから・・・・・・。プラトンソフィスト』から・・・(ハイデガー存在と時間』)≫



ハイデガーは、『存在と時間』の冒頭で、我々は、ソクラテスプラトン以来、「存在」を見失っているということを、プラトンの対話編からの引用文を借りながら書いている。つまりハイデガー哲学の本質は、現代人が存在を見失っていること、つまり「存在喪失」、あるいは「故郷喪失」というところにある。ハイデガーナチスへの加担も、存在喪失した現代人の存在回復の試みの一つだったと考えれば、不思議でもなんでもない。では、存在とは何か。存在喪失とは何か。ハイデガーは、「存在者」は「存在」ではない、という。我々が見ているのは、存在ではなく、存在者である。つまり机や椅子があるという時の「ある」とは、存在者があるということである。存在者の背後に存在があるのだが、その存在は確かに「ある」にも関わらず、我々の日常的な目には見えない。存在者は見えるが、存在は見えない。たとえばこう言っている。
  ≪理解を助けるために少し例を示そう。この通りの向かい側に高等実業学校の建物が建っている。それは何か存在者である。われわれはこの建物を外から四方八方窺い探ることができるし、中へ入って地下室から屋根裏に至るまで歩き回り、そこにあるもの、廊下、階段、教室及びその備品などをすっかり見定めることができる。到る所でわれわれは存在者を見つけ出す、しかもきちんとした秩序をもって。ところで一体どこにこの高等実業学校の存在があるというのか?そんなものはどこにもないように思えるけれど、しかしこの学校はあるのだ。その建物はある。この存在者に何かが属しているとすれば、それの存在こそそうである。にもかかわらず、われわれはその存在をこの存在者の内部で見つけだすことができない。≫(ハイデガー形而上学入門』)
 存在者と存在は異なる。この、存在と存在者の差異を、ハイデガーは「存在論的差異」と呼ぶ。ハイデガーが、存在を見失っているというのは、存在者を存在と混同している、あるいは錯覚している、そういうことだ。ニーチェは「科学で滅びないために芸術がある」と言っているが、それは、科学や哲学では、「存在」を表現できないが、芸術によっては、必ずしも不可能ではないということだろう。言い換えれば、文学や芸術は、しばしば「存在者」ではなく、「存在」を描いている。従って、ハイデガーも芸術にこだわった。たとえば、詩人のトリスタン・ツアラ。ハイデガーは、トリスタン・ツアラとその試作の中に「存在」を発見した、と考えることが出来る。小林秀雄は、母親にとって、「子供の死」と「死んだ子供」は違うというが、小林秀雄もまた、存在者ではなく「存在」を問うているということが出来る。さて、僕は、ハイデガーの問題を存在喪失、故郷喪失という観点から考えていくと、自然に林芙美子という作家を思い出す。林芙美子の『放浪記』の中にあるのは、ハイデガー的な「存在喪失」と「存在の発見」という問題である。つまり、『放浪記』の冒頭の一節、「私は宿命的に放浪者である」「私には古里がない」「旅が古里であった」・・・というような「放浪」や「旅」、あるいはこれらに加えて「行商」という林芙美子的キーワードは、普通の解釈では、「貧乏」や「不遇」「不幸」と直結している。しかし、この解釈は間違っている。確かに林芙美子は、貧乏で、不幸な生い立ちの娘だったかもしれない。底辺の労働者として、職を転々としたのも事実であろう。しかし、単なる貧乏で、不幸な女が、カネを得たからといって、突然、海外旅行へ出発するものだろうか。林芙美子は、ベストセラーとなった『放浪記』や出世作『風琴と魚の街』で得た印税によるカネを懐に入れると、突然、満州や上海に旅行をし、そしてついには、パリ旅行へ出発する。
改造社から思わぬ印税が転がり込んだとき、芙美子は、満州、上海へ旅行した。東京駅に出迎えた夫の緑敏は、ひとりでもちきれないみやげものの中に埋まっていた芙美子を発見して驚いたという。金が入ると、惜しげもなく使う癖が芙美子にあった。≫(和田芳恵「作家と作品 林芙美子」)
 林芙美子は、貧乏で、住む家のない「家なき子」だったから放浪していたのでも、旅が古里だったのでもない。林芙美子は旅が好きだったのである。放浪が好きだったのである。むろん、読者たちもまた旅や放浪が好きだったが、しかし現実には、林芙美子のように奔放に旅や放浪を続けることはできない。読者は、林芙美子の作品を読むことで、それを代行したのだろう。つまり林芙美子とその作品の中に「存在」を見出していたのだ。林芙美子が「私には古里がない」「宿命的に放浪者である」と言う時、実は、ハイデガー的な意味で、「ここに存在がある」「私は存在を発見した」と言っているのだ。
 そこで、僕は、モーゼの「出エジプト記」を思い出す。モーゼは、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人を引き連れて、カナンの地を目指して放浪の旅に出る。そこから共同体の宗教ではなく、世界宗教としての一神教(ユダヤ教キリスト教)が誕生する。柄谷行人は、このモーゼのエジプト脱出と放浪の旅を、こう説明している。

≪しかし、むここでも別の読み方が可能だろう。たとえば、モーゼ自身がカナンの地に入るということを拒んだということができないだろうか。また、モーゼがユダヤ人をエジプトから連れ出したのは、「約束の地」に導くためではなく、「砂漠」に導くためではないだろうか。このことは、マックス・ウェーバーの考えでは、モーゼは、ユダヤ人を、濃厚定住民(奴隷であろうと主人であろうと)から、
遊牧民としての在り方に戻そうとする運動を象徴している。(中略)モーゼにおいて〝回復〝されているのは、共同体が抑圧した空=間なのだ。(中略)さらにモーゼにとって、約束の地とは、「約束の地」(目的)に到達することを拒むこと、いいかえれば「過程」そのものなのである。こうしたことが、モーゼの「物語」のなかでは、消されてしまう。しかしフロイトが気付いたように、この「物語」に
は、どんな共同体の物語にも反する要素が書き込まれている。いわば、物語の批判が、この物語のなかに書きこまれているのである。

つまり、モーゼは、ユダヤ人を、エジプトから連れ出し、放浪の旅に導いた人ということである。このことが意味するのは、放浪と旅の中に、存在があり、存在の回復があるということだ。「約束の地」とは、旅であり放浪なのである。柄谷行人は、こうも言っている。「プラトン哲学において、『存在喪失』があるとすれば、それは外部性・他者性の喪失に他ならない」と。ハイデガーは、ソクラテスプラトン以後、「存在を見失った」というが、それは柄谷行人のいう「外部性・他者性の喪失」ということにほかならない。目的のない放浪の旅の中にこそ、他者との出会いがあり、外部との接触が可能になり、つまり存在の発見があると言うことである。
 つまり、誤解を恐れずに言えば、林芙美子の『放浪記』もまた、一種の『出エジプト記』にほかならない。そうだとすると、林芙美子の「放浪」や「旅」や「行商」の意味は、これまでの解釈とまったく違ったものになるはずである。
 ところで、僕は、ここ二、三年、清水正日大芸術学部教授や山下聖美准教授等とともに、伊香保屋久島、桜島尾道上林温泉などへの「林芙美子研究取材旅行」を続けているのだが、その「旅」を続けているうちに、「林芙美子ハイデガー」という、旅の初めのころからは想像もできなかったような問題に遭遇することになった。林芙美子のいう「放浪」と「旅」「行商」の存在論的意味に、覚醒したからだ。したがって、林芙美子の代表作は、デビュー作でもある『放浪記』である、と僕はかたくなに信じているのだが、しかし、それでは、『放浪記』の何処が、そして何が、林芙美子の代表作と呼ぶに値するのかというと、明解に答えられるわけではない。むしろ、作品の完成度という点では、晩年の大作とも言うべき『浮雲』、あるいは短編の名作『風琴と魚の町』等に比べれば、明らかに粗雑であり、未熟である。しかしそれでも僕は、『放浪記』にこだわる。ここに林芙美子のすべてがあり、そして林芙美子が生きた昭和初期の時代の「危機の時代」とか「不安の時代」とか言われた時代の実相が色濃く描かれているからだ。『放浪記』は、昭和3年、「女人芸術」に初めて掲載された。その後、続編が書かれ、一冊の『放浪記』としてまとめられ、昭和5年改造社から出版されるわけだが、僕は、ほぼ同時期に、「改造」新人賞第二席に、評論「様々なる意匠」が入選し、デビューした小林秀雄と比較せざるをえない。小林秀雄は、デビューと同時に、文壇に「批評」というものを持ち込み、文壇風景を、「小説から批評へ」というような革命的ともいうべきパラダイム・チェンジを果敢に実行することで、書き換えたわけだが、それは林芙美子の文学とも無縁ではないように見受けられる。林芙美子の文学は、大衆的な人気にもかかわらず、あまり高い評価を受けてこなかったように見える。その原因は、どこにあるのだろうか。小林秀雄は、近代批評を確立することによって、実は日本の文壇に哲学と哲学批判の土壌を開拓したのだが、同じことが林芙美子にも言えるような気がする。それを、まだ、だれも理解していないし、指摘していないことが、林芙美子への評価の低さにつながっている。林芙美子の『放浪記』はハイデガーの『存在と時間』に通底している。林芙美子を平凡な女流作家と、甘く見てはいけない。


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