文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

清水正の新著『林芙美子と屋久島』を読む。・・・『浮雲』は、何故、鹿児島で終わっているのか?

昨年夏、猛暑の中、清水正日大芸術学部教授等と、「林芙美子屋久島」の取材調査を目的に、飛行機で鹿児島空港へ、そして鹿児島港から「トッピー」という小さな船に乗って屋久島旅行に出かけた。錦江湾を出て、東シナ海の海側から、薩摩半島開聞岳、そして大隅半島を見たのは初めてだった。海は静かだったが、そのあまりの大きな海原と小さく見える薩摩半島大隅半島と、そして海原に浮かぶ小さな島々に、少し不安と恐怖を感じた。僕は、薩摩半島の中央部に生まれ、そこで育ったのですべては懐かしいはずなのだが、海から陸地を見るのは初めてだったので、懐かしいというより、まったく別世界のように感じた。わずかに開聞岳の山頂が、いつも見ているものと変わらないだけだった。僕の友人の息子が、東大地震研究所にいて、このあたりの島々の火山や地震の研究をしているらしいが、彼の話によると、かつてこの一帯で、火山の大爆発があり、南九州全域がほぼ全滅したという形跡があるらしい。おそらく巨大な津波が、薩摩半島大隅半島を呑みつくしたのであろう。東日本大震災の巨大津波の映像を見て、昨年夏のことを、つまり東シナ海の巨大な海と小さな島々のことを、あらためて思い出した。さて、船は、一時間か二時間過ぎて宮之浦港に着いた。林芙美子とも関係の深い宮之浦の「田代別館」を根城に屋久島を歩き回った。最初の日は、観光バスで屋久島の神社や白谷雲水峡、滝など、屋久島の秘境ともいうべきところを見て回ったが、二日目はタクシーを借り切って、安房のトロッコ屋久杉ランド、そして猿や鹿がいる林道の奥地にある「紀元杉」など、かなり奥地まで見て回った。むろん、清水教授らに引きずられるように林芙美子の「屋久島紀行」の後をたどっていったのである。清水さんの取材は徹底していた。夜は、林芙美子一行が一泊したという「田代館」の女主人を相手に深夜まで質問攻めにしていた。その取材調査の成果をまとめたのが『林芙美子屋久島』である。僕自身は、それほど深く林芙美子に関心があったわけではないが、清水教授や山下清日芸准教授等の熱狂的ともいうべき「林芙美子研究」に影響を受けて、いつのまにか林芙美子という作家が、僕の中でも小さくない存在になってきた。しかも不思議なことに、僕が指導している朝日カルチャーセンターの「小説教室」でも、熱心な林芙美子ファンがいて、林芙美子ならこれですよ、と『風琴と魚の街』を教えてもらった。『風琴と魚の街』は尾道を舞台にしている小説だが、僕も一読して、これは名作だと深く感銘を受けた。その後、僕は尾道林芙美子が少女時代を過ごし、そこで文学に目覚め、多感な女学校時代を終えたという小さな借家も見たし、清水さんたちと『浮雲』の舞台になっている伊香保も訪ねている。さらに林芙美子が宿泊していたという伊香保の「金太夫」旅館にも一泊している。考えるまでもなく、僕も林芙美子にかなり入れ込んでいることになる。さて、林芙美子は、もともと母親が鹿児島の桜島古里温泉の出身で、さらにそこが林芙美子の本籍地ともなっていることから、鹿児島とは深い関係にある。だから僕も林芙美子の話は、かなり小さいころから聞かされている。しかし、逆に、林芙美子は鹿児島と関係が深いが故に、鹿児島に生まれ育った僕には、それを避けたい気持ちがいつまにか形成され、「林芙美子嫌悪」症のようなものが出来上がっていた。『放浪記』に象徴されるような「貧乏な放浪作家…」のイメージが、あまりにも通俗的すぎて、小説よりは、小説を批評する批評や哲学に関心を持っていた僕には、林芙美子という作家とまともに向き合うことが出来なかったのである。鹿児島県には文学者は少ない。だから、林芙美子は貴重な存在である。鹿児島市の文学館に一度、見学に行ったことがあるが、そこでは林芙美子は鹿児島の代表的な作家として紹介されている。たとえば、そこで島尾敏雄向田邦子など、鹿児島と関係の深い作家たちも大きく取り上げられているが、そこで紹介されている作家たちのほとんどは、鹿児島生まれ、鹿児島育ちではない。言い換えれば、鹿児島生まれ、鹿児島育ちの作家は皆無に近いということである。むろん、林芙美子も、下関生まれ(門司生まれ?)で、鹿児島生まれでも鹿児島育ちでもない。しかし、逆に言うならば、母親の生まれ育った故郷でありながら、しかもそこから追い立てられるように逃げて行った古里である鹿児島とは、微妙な関係であるが故に、林芙美子は、鹿児島にこだわり続けた作家だったように見える。その複雑な気持ちを『屋久島紀行』の冒頭で、こう書いている。

 鹿兒島で、私たちは、四日も船便を待つた。海上が荒れて、船が出ないとなれば、海を前にしてゐながら、どうすることも出來ない。毎日、ほとんど雨が降つた。鹿兒島は母の郷里ではあつたが、室生さんの詩ではないけれども、よしや異土の乞食とならうとも、古里は遠くにありて、想ふものである。
 雨の鹿兒島の町を歩いてみた。スケッチブックを探して歩いた。町の屋根の間から、思ひがけなく、大きくせまつて見える櫻島を美しいと見るだけで、私にとつては、鹿兒島の町はすでに他郷であつた。空襲を受けた鹿兒島の町には、昔を想ひ出すよすがの何ものもない氣がした。宿は九州の縣知事が集まるといふので、一日で追はれて、天文館通りに近い、小さい旅館に變つた。鹿兒島は、私にとつて、心の避難所にはならなかつた。何となく追はれる氣がして、この思ひは、奇異な現象である。
 私は早く屋久島へ渡つて行きたかつた。
 實際、長く旅をつゞけてゐると、何かに滿たされたい想ひで、その徴候がいちじるしく郷愁をかりたてるものだ。泰然として町を歩いてはゐるが、心の隅々では、すでにこの旅に絶望してしまつてゐることを知つてゐるのだ。一種の旅愁病にとりつかれたのかもしれない。
 四日目の朝九時、私達は、照國丸に乘船した。第一棧橋も、果物の市がたつたやうに、船へ乘る人相手の店で賑つてゐる。果物はどの店も、不思議に林檎を賣つてゐるのだ。白く塗つた照國丸は千トンあまりの船で、屋久島通ひとしては最優秀船である。

四日間も船が出ず、仕方なく鹿児島市内で過ごした時の様子を書いているわけだが、ここには林芙美子の、鹿児島という母親の故郷への複雑な思いがこもっている。複雑な思いと言うよりは、生理的な嫌悪感といってもいいかもしれない。「鹿兒島は母の郷里ではあつたが、室生さんの詩ではないけれども、よしや異土の乞食とならうとも、古里は遠くにありて、想ふものである。」とか、「鹿兒島は、私にとつて、心の避難所にはならなかつた。何となく追はれる氣がして、この思ひは、奇異な現象である。」と書いていることからも読み取れるように、鹿児島に生まれたわけでもないし、そこで育ったわけでもない林芙美子にとって、鹿児島は後ろ暗い、嫌悪すべき「故郷」でしかなかったのかもしれない。しかし、そう言いながら、『浮雲』の最後の舞台を鹿児島に選び、主人公・幸田ゆき子の死場所として屋久島を持ってきたということは、やはり林芙美子のにとって、鹿児島は、単に嫌悪すべき場所にとどまらず、もっと深い、存在と直結していた場所だったのではないかと思われる。「放浪記」には、こう書いてある。

 私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になっ たと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。私が生れたのはその下関の町である。−故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侍しい気持ちで習ったものであった。

たとえば文学的自叙伝「一人の生涯」(文泉堂出版の『林芙美子全集』第4巻収録)では、こう書いている。

  「ほんのわずかの間ですが、私は鹿児島の、母の里へ預けられていたことがありました。始めて会う親類でしたけれど、私は遠いところから、犬か猫でも来たような、肉親の厭な態度に、反吐(へど)とは人の顔に吐きすてるものの感じを強くしました。そのくせ、私は、その激しい反抗をひそめて、如何なる場合にもにこにこ笑っていなければならなかったのです。
                   (中略)
 私は学校のかえりに城山に登って、町をみることや、火を噴いている桜島を眺めることがたいへん好きでした。
 あの島の向うには、いったい、どんな国があるのだろうと思ったりしました。馬を連れた軽業師が、沢山の女の子を連れて住んでいるようにおもいました。馬や、牛や、兎のかたちをした雲をみると、私は雲の描く、空の動物園を実に愉しく眺めたものです。空には何があるのだろう、海のなかには、いったい、どんな町があるのだろうかと思いました。お化けのような町があるのかも知れないと思いました。
 魚や貝が、海の学校へ行って、自分のように叱られているのもあるかも知れないとおもいました。」

林芙美子は、一時、親戚に預けられ、鹿児島市内、つまり市内の中心街にある山下小学校に通っている。しかし、ほとんど学校には行かなかったらしい。この「一人の生涯」では、学校には通ったと書かれているが、真相はわからない。しかし、いずれにしろ、林芙美子にとって鹿児島が「母の故郷」ではありながら、懐かしい故郷だったようには見えない。むしろ嫌悪すべき故郷であったと言っていいのではないか。『放浪記』にも『浮雲』にも鹿児島は登場する。特に、長編小説『浮雲』は屋久島と鹿児島で終わっている。しかも林芙美子自身も、連載完結二か月後には、主人公「ゆき子」と同じように死んでいるのである。ちなみに、晩年の林芙美子の年譜を繙くならば、こうである。1949年11月に『浮雲』の連載を始め、1950 の春に屋久島に取材旅行、そして1951年4月に、主人公「ゆき子」の死、そして「ゆき子」に死なれた「富岡」が鹿児島に戻り、繁華街・天文館を彷徨する場面で完結。そのわずか2か月後には、林芙美子自身が急死しているのである。言うならば、林芙美子は、『浮雲』という作品と、あるいは『浮雲』の主人公「ゆき子」と、運命を伴にしているのである。僕は、こういうふうに、作品と生活が一体化したかのような作家が嫌いではない。僕は、以前から清水さんに「『浮雲』はもう読んだか?」と何回も聞かれたが、はっきり読んだとは言わなかった。伊香保屋久島に取材旅行までしておきながら、つまり作品も手元にあり、何回も読もうとしたのだが、『浮雲』の文章が読めなかったのである。ピンと来るものがなかったからである。奇妙なことだが、東日本大震災と巨大な津波を体験した今、『浮雲』が身近な作品に感じられ、すらすらと読むことが出来るようになった。 言うまでもなく、清水正日芸教授が『林芙美子屋久島』を刊行したこととも無縁ではない。清水さんは、『林芙美子屋久島』を、自分の母親の死の話から書き始めている。おそらく清水さんは、『浮雲』の「ゆき子」の死と林芙美子自身の死、そして自分の母親の死の体験という「三つの死」を重ね合わせているのだろう。言い換えれば、林芙美子にとって「母親の故郷」である鹿児島で『浮雲』という長編小説は終わらなければならなかったし、『浮雲』は「ゆき子」の死で終わらなければならなかった。そして『浮雲』を書き終えた時、林芙美子の文学もまた終止符が打たれねばならなかったのだ。
さて、清水さんは、この『林芙美子屋久島』という本の意義について、ブログで、こう書いている。

四月四日、『林芙美子屋久島』(D文学研究会発行・星雲社発売・定価1500円+税)と『私家版・林芙美子屋久島』(Д文学研究会発行・限定五十部)が研究室に届けられた。市販本はA五版・並製・160頁と小さなものだが、校正などに手間取り、ようやく出来たという感じである。来週中には全国の本屋に並ぶ予定。この著作にはわたしの林芙美子に対する思いをこめた。

屋久島に取材旅行した時にたいへんお世話になった田代別館の貴久氏に報告、さっそく宅急便でお送りした。女将の田代房枝さんに取材できたことで、林芙美子が宮之浦の田代旅館に一泊した時にお世話した先代女将の名前を知ることができた。著作に先代女将ハヨさんの写真も掲載することができたので、それだけでも今度の本は価値があると思う。

この調査研究に同行し、また田代別館の「大女将」との深夜に及ぶ貴重な対話を傍聴させてもらったことも、今では懐かしい思い出である。

(続く)

清水正ブログ http://d.hatena.ne.jp/shimizumasashi/20110405/1301965002


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