文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

二万人の死者たちとどう向き合うか?

東日本大震災の死者は二万人とも三万人とも言われているが、その最終的な数は、震災後一ヶ月を経過した今も、未だ不明であるが、ただ単に二万人とか三万人とか言っても、直接の被災者やその関係者でない限り、いや、直接の関係者でも、すぐにピンと来る人はあまりいないだろう。おそらく、大東亜戦争の膨大な死者たちに対しても同じようなものだったのかもしれない。少なくとも僕には、身内に関係者が一人もいないような立場であるからかもしれないが、ほとんど実感がわかない。震災後、僕は、たまたま時間的余裕があったので、家にこもりきりで、一週間、テレビ報道を見続けていたが、どれだけテレビ画面を見続けていても、地震津波への恐怖と自然への畏怖は感じたが、テレビ報道が伝える死者たちと向き合うことはできなかった。つまり、死者たちは単なる数字であり、それは他人事でしかなかった。地震から何日目かに、瓦礫の山とその向こうにある海に向かって、低い声で叫びながら母親を捜し求めるひとりの少女を写した映像が流れた時、僕は、初めて、大震災がもたらした悲しみというものの深さを感じた。どうすることも出来ない深い悲しみがそこにはあった。その後、テレビや新聞などに洪水のごとく氾濫するようになった「お見舞い申し上げます」「お悔やみ申し上げます」、そして「かんばれ、ニッポン」「日本は必ず復活する」、あるいはまた「復興計画」「新しい防災都市づくり」・・・という類の言葉に、そのあまりの空虚さと軽薄さに内心の怒りを感じながら、僕は、小林秀雄の言葉を思い出していた。

歴史は二度と繰り返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖という様なものではないと思います。それは、例えば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかなことでしょう。母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではあるまい。かけ代えのない命が、取り返しがつかず失われて了ったという感情がこれに伴わなければ、歴史事実としての意味は生じますまい。(『考えるヒント3』P228文春文庫)

小林秀雄は、ここで、人間を「個人」「個体」としてとらえていない。個人としての人間は、数の問題に還元できる。しかし、子供を亡くした母親にとって死んだ子供は、あるいは母親を亡くした子供にとって、子供や母親は個人でも個体でもない。世界であり、世界のすべてであるかもしれない。ここに言うまでもなく、悲劇の悲劇性がある。何物にも回収できない悲劇とは、子供の死を前にした母親の悲しみそのものというしかない。小林秀雄は、続けて、こういうことも言っている。

母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ。死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。

小林秀雄は、ここで、何を言っているのか。おそらく悲劇の悲劇性という問題である。悲劇を、物語や歴史に解消する時、悲劇は終わる。「葬式」も「癒し」も「カウンセリング」も、悲劇の悲劇性を解消するものでしかない。むろん、われわれは生きていくために、そういうものを必要とする。しかし、そういうものでどうしても解消しえないものがあり、小林秀雄が「子供の死」と「母親」の比喩で語ろうとしたものは、まさに何物にも解消しえない悲劇の悲劇性である。ニーチェは、『悲劇の誕生』で、ギリシャ悲劇はソクラテス哲学の登場と共に終わると言っている。柄谷行人の説明を見てみよう。

われわれが、世界を一つの理念や法則性によつて説明しうると思えるようになったとき、その理念がプラトニズムであれ、キリスト教であれ、マルクス主義であれ、進歩主義であれ、そこにおいて悲劇的認識は終わります。悲劇的認識は、その直前にある。僕は、それは構造の外にある出来事についての意識、あるいは構造に回収しえないものについての意識だといいました。


柄谷行人が「プラトニズムであれ、キリスト教であれ、マルクス主義であれ、進歩主義であれ」というのは重要である。言い換えれば、「プラトニズムであれ、キリスト教であれ、マルクス主義であれ、進歩主義であれ」、一つの理念にすぎないということである。われわれは、それらの理念のどれかを使って世界や存在や人間を理解したつもりになっている。しかし、それが、まさしく「悲劇の悲劇性」から目をそらすことなのだ。小林秀雄のいう「子供の死」を前にした母親は、天国も神も仏も、何も信じることが出来ないだろう。子供は天国へ行ったのだ、と言われても何の慰めにもならないだろう。それが、「悲劇の悲劇性」である。柄谷行人は、それを単独性としてとらえている。個人性、あるいは特殊性と単独性は違うというのである。

私はここで「この私」や「この犬」の「この」性を単独性と呼び、それを特殊性から区別することにする。単独性は、あとでいうように、たんにひとつしかないということではない。単独性は、特殊性が一般性からみられた個体性であるのに対して、もはや一般性に所属しようのない個体性である。たとえば、「私がある」と、「この私がある」とは違う。「私がある」の私は一般的な私のひとつの特殊であり、したがって、どの私にも妥当するのに対して、「この私がある」の私は単独性であり、他の私と取替えできない。むろん、それは、「この私」がとりかえできないほど特殊であることをすこしも意味しない。「この私」や「この犬」は、ありふれた何の特性もないものであっても、なお単独的なのである」(柄谷行人著『探求Ⅱ』10P)


(続く)

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