文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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保守論壇改造論(7)…櫻井よしこの『異形の大国・中国』と長谷川三千子の『民主主義とはなにか』を読み比べながら。


保守論壇はかつて勢力図的にいうならば、圧倒的に絶対的少数派ではあったが、その思想的レベルでは、明らかに左翼論壇や左翼ジャーナリズムの思想的レベルを圧倒し凌駕していた。よほど学問的実績があるか、文学的名声でもないかぎり、保守や保守思想家、保守言論人を名乗る人がいなかったことが象徴している。つまり、保守や保守思想家と名乗るか、あるいは、保守や保守思想家と見做されるかぎり、論壇やジャーナリズムでは飯が食えなかったのである。現在の保守や保守論壇とはまったく異なるのである。つまり「冷や飯」覚悟でなければ、保守や保守思想家を名乗るものはなかった。むろん、僕は、そういう時代の保守や保守思想家に憧れていた。彼等が、一見、社会的地位や名声に恵まれていたとしても、それは、まさに彼等の学問的、思想的、あるいは文学的実力によってかちえたものであった。それに対して、今の保守論壇は明らかに思想的に貧しい。渡部昇一櫻井よしこ西部邁、中西輝正…その他の、保守や真正保守名乗る自称・保守思想家たちの言論活動を見れば、一目瞭然である。彼等には、それなりに名の知れた大学教授もいるが、学問的、思想的、文学的実績は皆無と言っていい。さて、現在の保守論壇にも、「掃きだめの鶴」ではないが、それなりに語るに値する保守思想家がいないわけではない。たとえば、この三月、埼玉大学教授を定年退職(官)した長谷川三千子である。僕は、長谷川の『民主主義とはなにか』や『日本の哲学へ』を読みながら、ここに保守論壇再生の可能性とその鍵がある、と考えた。長谷川は、先頃、行われた埼玉大学での「最終講義」において、そこに出席した岩田温のレポートによれば、面白いエピソードとして「渾沌の哲学」を語たったそうだが、僕は、まさにその「渾沌の哲学」理論のなかに、保守思想再生、ないしは保守論壇再生の鍵が潜んでいるように思う。岩田のブログによると、こうである。

 丁度教室に入ったとき、長谷川先生の好きな話として『荘子』の中の渾沌の話をしていた。『荘子』によれば、「渾沌」とは、眼もなく、鼻もなく、何も存在しないノッペラボーのような生き物だった。見かねた周りの人々が「渾沌」に目、鼻、口を作ってやると「渾沌」は死んでしまったという。長谷川先生はこの話が大変好きだと仰っていたのだが、私はここにこそ長谷川先生の哲学者としての姿を見た思いがした。

 哲学者とは、渾沌のような無秩序を相手に一人戦う存在である。その意味で混沌に目鼻をつけるのが哲学者の仕事のはずである。
だが恐らく、「渾沌」とは哲学者が目鼻を付けたところで死にはしない。哲学者がようやく目鼻を付けたと思ったその矢先に新たな渾沌が待ち受けている。
哲学者は新たに出現してきた渾沌と対峙し、もう一度この混沌に目鼻をつけようと努力する…。こうした渾沌との知的格闘を幾度となく繰り返すのが哲学者という存在なのであろう。先生は仰っていなかったが、こうした本物の哲学者は少ないはずである。多くの学者は、当初哲学者として出発しながらも、こうした営みをどこかで断念してしまう。
混沌を整理し、秩序付ける。

長谷川が「渾沌」の話に、かなり若い頃から哲学的興味を持ち続けてきたことも、そしてその話を哲学的な思想問題として真摯に受け止めることの出来る岩田も素晴らしい。僕が、昨今の保守論壇や保守ジャーナリズムに根本的に欠如していると考えるのも、まさに長谷川や岩田が語る「渾沌の哲学」にほかならない、と言っていい。(続く)
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