文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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保守論壇改造論(7)…田中美知太郎とソクラテス、プラトン、アリストテレス(二)

 ここで、田中美知太郎の学者としての歴史を簡単に振り返ってみよう。実は、田中美知太郎は順風満帆に学者人生を送ってきた人ではない。それは、東大選科出身のために、苦労に苦労を重ねてやっと京都大学教授になった哲学者・西田幾多郎の人生によく似ている。時代は異なるが、田中美知太郎もまた「選科出身」だからである。旧制開成中学校卒業。上智大学予科第1年2学期編入、本科中退。1926年、京都帝国大学(現・京都大学)文学部哲学科選科修了。1928年、法政大学文学部講師。1930年、東京文理科大学(後の東京教育大学)講師。1947年、京都帝国大学文学部助教授。1950年、京都大学文学部教授。これだけ見れば、一見、順風満帆の学者人生のように見えるが、実は田中美知太郎は、父親を早く亡くしていたことも関係あるのかもしれないが、青年時代に無政府運動に走ったこともあり、学校は中退や浪人を繰り返しており、さらに大学は正規の卒業生ではなく「京大選科」卒である。当時の選科とは、現在の「聴講生」のようなものであったと言われている。当然、大学を卒業したと言っても名ばかりの卒業であり、就職はなく、浪人生活を余儀なくされている。また1945年5月25日、東京大空襲焼夷弾を浴び、瀕死の大火傷を負い、生死の境を彷徨うという体験もしている。しかもこの大火傷で、顔にケロイド状の大きな傷が残ることになったが、しかし、そうした数々の苦難にもかかわらず、田中美知太郎は、同じく選科卒の西田幾多郎とともに、皮肉なことに「選科卒」だからこそ成し遂げられたのかも知れないが、他の追随を許さないほどの偉大な学問的業績を積み重ね、結局、日本の哲学研究の歴史に欠かせない存在となっている。田中美知太郎の仕事の中で特筆すべきは『プラトン全集』の翻訳があげられるが、その他にも、ソクラテス研究やプラトン研究など、ギリシャ哲学研究を初めとする膨大な著作を残している。さて、その田中美知太郎というギリシャ哲学研究の壮途が、一方では、戦後の保守論壇や保守思想を先導した保守思想家の一人なのだというから、考えさせられる。つまり田中美知太郎は、敗戦直後の戦後日本で、左翼論壇や左翼思想が全盛期を謳歌していたにも関わらず、敢えて少数派である保守派論客として活躍し、 サンフランシスコ講和条約問題では、多くの文化人や学者たちが「全面講和」を主張する中で、積極的に「単独講和」を主張し、支持した。しかも1968年には、保守系団体「日本文化会議」の設立にも参画し、自ら理事長をつとめている。田中美知太郎は、付け刃の、つまり一夜漬けの保守思想家ではなく、筋金入りの保守思想家だったのである。言い換えれば、かつての保守論壇や保守思想とは、田中美知太郎のような思想家によって構成され、成り立っていたということだ。現在のように、朝から晩まで特定の政治家を誹謗中傷したり、中国や韓国、北朝鮮のような「隣国」への批判・罵倒を繰り返しているだけの軽佻浮薄な保守論壇とは、その思想的レベルを異にしていたと言うべきなのである。むろん、保守思想家としての田中美知太郎の思想とは、ギリシャ哲学研究と直結していた。それは、一言で言えば、ソクラテスプラトンと同じように、「自分の頭で考える」という思想であった。これは、もう一人の保守思想家・小林秀雄の思想にも通じる思想である。つまり、「左翼は何も考えていない」「左翼は考えさせられているだけだ」というのが、田中美知太郎や小林秀雄等の「思想」であり「確信」であった。(続く)
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