文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

保守論壇改造論(5)・・・佐藤優とマルクス


昨日(2011/3/3)、品川の某ホテルで「松崎明を偲ぶ会」が盛大に行われた。僕も、一昨年、JR総連の勉強会の講師として呼ばれたことがあるという縁で参加し祭壇に献花してきたが、そこで、佐藤優が、追悼の挨拶としては異例ともいうべき左翼、右翼という図式を超えた哲学的、思想的な内容の密度の濃い「追悼の挨拶」をしたので、その素晴らしい挨拶を聴きながら僕が考えたことを書きながら、保守論壇に限らないが、現代日本の論壇やジャーナリズム全体が陥っている思想的劣化なるものと、そしてその思想的劣化からの脱出、克服の方向性について言及しておきたい。さて、「松崎明」は、よく知られているように旧国鉄労働組合動労」の委員長。そして民営化後は「JR東労組」の初代委員長を務めた、言うならば左翼労働運動の闘士である。その一方で、松崎明を有名にしているのは「左翼過激派」と呼ばれる「革マル派」との関係である。松崎は、革マル派創設に参加、副議長も務めたことがあり、その後、組織からは離れているが、週刊誌類では今でも「革マル派」との関係を噂されている。常識的に考えるならば、保守論壇や保守思想の側からは、批判することはあっても、擁護したり絶賛したりすることはありえないような人物である。しかし、佐藤優は、みずからは「保守」や「右翼」陣営の人であると宣言しつつ、「松崎明」を思想的に高く評価し、ある場面では絶賛している。ここに、僕が注目する佐藤優の保守思想家としての懐の深さがある。佐藤優は、明らかにイデオロギーを超えた存在論的地平を見つめている。たとえば、佐藤優は、北畠親房の『神皇正統記』や大川周明の『米英東亜侵略史』、あるいは『国体の本義』というような、右翼・保守系の書物を深く読み込み、論じる一方で、マルクスドストエフスキーをも誰よりも深く読み込み、論じている。イデオロギー固執する人から見れば、佐藤優の本の読み方は無節操で、いい加減に見えるかもしれない。しかし、佐藤優は、イデオロギー的次元を超えたところの、もっと深い根源的、原理論的次元で、「物を考えている」と解釈すれば、佐藤優存在論的な思想家であることがわかるだろう。おそらく小林秀雄福田恒存、あるいは三島由紀夫江藤淳もまた、そういう存在論的地平を見つめていた思想家だった。つまり、最近、保守論壇や保守思想が劣化したのは、薄っぺらな左翼思想や右翼思想という党派的なイデオロギーにとらわれて、存在論的地平で、思想や哲学の根源を語れなくなったことにある。たとえば、最近の保守論壇や保守思想と言えば、多くの人が、今、それぞれ立場は異なるかもしれないが、「米国陰謀論」と「中国脅威論」「ロシア脅威論」の虜になっている。つまり、いずれも、自分たちの思想的劣化や思想的欠陥のことより、外国の陰謀や外国からの侵略を警戒し、それを批判・罵倒することに夢中になっている。ここに保守論壇や保守思想の劣化の根本原因があることは明らかだ。櫻井よしこ女史の「中国脅威論」「中国警戒論」はその典型である。僕の知る限り、小林秀雄にしろ福田恒存にしろ、あるいは三島由紀夫にしろ、かつてその種の陰謀論や脅威論に夢中になった保守思想家はいない。江藤淳の「米国の言論統制」論は、米国陰謀論に近いように見えるかもしれないが、しかしそれはあくまでも日本戦後論であり、戦後日本人論である。江藤淳にとってもまた問題は、日本であり、日本人であり、そして自分自身だったというべきだろう。その意味で、最近の保守論壇や保守思想に蔓延している「米国陰謀論」や「中国脅威論」とは異なる。さて、佐藤優であるが、論壇やジャーナリズムへの「佐藤優」の登場によって日本の論壇もジャーナリズムも一変した。それまで、見えなかったものが見えるようになったからである。「国策捜査」とか「検察の暴走」「官僚の暴走」という言葉は、今では誰でも口にすることができるが、佐藤優がこれらの言葉を使い始めるまでは、誰も気付かなかった問題である。しかしそのことに気付いているものは、まだ少ない。では、何故、佐藤優にそういうことが可能であったのか。佐藤優は、自分の思想的立場は、あくまでも「保守」あるいは「右翼」だと言っているが、佐藤優の思考の原点にはマルクスマルクス主義がある。僕は、ここに佐藤優という思想家の秘密があると考える。佐藤優は、マルクスを読み、マルクス主義を深く理解することが、日本人の思想的鍛錬になり、そして日本と言う国家の強化につながると考えているように見える。「マルクス経済学を読んでもマルクス主義者になる必要はまったくない」(『私のマルクス』文春文庫P15)、と佐藤優が言うのはそれである。佐藤優は、何故、マルクスなのか、についてこう書いている。

優れたテキストは、首尾一貫した形で全く異なる読み解きが可能である。まさに私にとってカール・マルクスの著作はそのようなテキストなのである。私は二〇〇二年五月十四日に背任容疑で東京地方検察庁特捜部に逮捕され(同年七月三日、偽計業務妨害容疑で再逮捕)、起訴された。その後、五百十二日間拘留を余儀なくされたが、マルクスの力を借りることができなければ、この独房で安楽に暮らすことはできなかったと思う。そして、『太平記』や『神皇正統記』と真剣に取り組むことも、また、大川周明や葦津珍彦のような優れた国家主義思想家あるいは西田幾多郎、田邊元、高山岩男のような京都学派の人々のテキストを虚心坦懐に繙く気にもならなかったと思う。
(『私のマルクス』文春文庫P15)

 佐藤優にとってマルクスとは何であったかが分かる。言い換えれば、「国策捜査」とか「検察の暴走」「官僚の暴走」という言葉も、そもそも、誰でもが、気軽に考えることことや口に出すことのできる言葉ではない。佐藤優だから、考えることのできた言葉である。佐藤優が、マルクスの力を借りて、自分の頭で考えた言葉が「国策捜査」とか「検察の暴走」「官僚の暴走」という言葉なのである。佐藤優が、どういう場所で、何について考えているかがわかるだろう。たとえば、保守論壇や保守思想に蔓延している紋切り型の言葉、たとえば「米国陰謀論」や「中国脅威論」を、佐藤優はほとんど口にしたことはほとんどない。「米国陰謀論」も「中国脅威論」も外国依存症、あるいは外国崇拝病の一種で、デビッド・リースマンのいう「他者依存型」にほかならない。米国や中国が、あらゆる策略や陰謀を行使しつつ、日本を巧妙に傀儡化し、日本を適当に利用しながら、つぶそうとするのは当然である。日本もまた、米国や中国に対して、そうすればいいことである。問題は、どうやって日本が米国や中国に勝つか、あるいは外国からの干渉や妨害を跳ね除けるかである。それは、米国や中国に対して、「負け犬の遠吠え」のごとく、泣き喚くことではない。日本国民自身の思想的成熟と深化、そして日本という国家の強化によるしかない。さて、佐藤優は「松崎明」について、こんなことをいっている。

この思想の背後に松崎さんの「賃金論」がある。松崎さんは、マルクスの『資本論』『賃金、価格および利潤』、レーニンの『帝国主義論』とともに宇野弘蔵の『経済原論』や『経済政策論』を徹底的に読み込み、独自の「賃金論」を構築した。(中略)マルクスの論理に基づけば、資本主義社会で搾取しない資本家は倒産した企業の資本家だけだ。企業が倒産すれば賃金を支払うこともできない。松崎さんは、資本主義の現実を冷徹に見据えた上で、自分の頭で労働運動の戦略を構築した。実に「地頭」のよい人なのである。
(『松崎明 心優しき「鬼」の想い出』(松崎明追悼編集委員会)P11)

 佐藤優が、左翼労働運動の闘士・松崎明を正当に、あるいは公平に評価できるのは何故か。それは佐藤優が、「右翼思想か左翼思想か」「保守か革新か」というようなイデオロギー的地平ではなく、より深く分け入っていった存在論的地平に立っているからだ。まさに現代の保守論壇や保守思想が見失ったものである。佐藤優は、松崎等の「左翼労働運動」について、国家論という見地から、こういっている。

国家主義者であることを自認する私がJR総連のファンになったのには、3つの理由がある。第一は、JR総連が民主主義の砦だからだ。モンテスキューが『法の精神』で強調しているように、民主主義を担保するのは自己完結した中間団体である。国家に依存するのでもなく、個々人がバラバラになり競争に明け暮れるのでもない。中間団体の助け合いで、生活を保障する。こういう団体があることで社会が強くなり、国家を現実的に担っている官僚の横暴を抑制することができる。裏返して言うと、官僚は、体質的に国家統制に従わない中間団体を嫌う傾向がある。「松崎明革マル派(日本革命的共産主義者同盟)の元幹部だ。それだからJR総連、JR東労組には革マル派影響が浸透している」という言説は、国家にとって面倒な中間団体を解体したいという官僚たちがもつ無意識の欲望を反映したものだ。しかし、中間団体がなくなると、社会が弱くなり、結果として国家が弱くなる。この連鎖が偏差値秀才型の官僚には見えないのだ。(『松崎明 心優しき「鬼」の想い出』(松崎明追悼編集委員会)P11)

 単純素朴な三流の保守思想家は、「JR総連」や「JR東労組」と聞けば、目を丸くして「奴らは敵だ、敵を叩き潰せ」とばかりに批判・罵倒を繰り返すことだろうが、しかし、佐藤優はそうしない。佐藤優はむしろ、「JR総連」や「JR東労組」を擁護する。そこが、佐藤優が、並みの保守思想家たちと違うところだ。佐藤優は、「中間団体論」を主張することによって「労働組合」という中間団体の存在を擁護する一方で、実は右翼保守派が唱える「社稷」という中間団体をも擁護している。「民主主義を担保するのは自己完結した中間団体である。国家に依存するのでもなく、個々人がバラバラになり競争に明け暮れるのでもない。中間団体の助け合いで、生活を保障する。こういう団体があることで社会が強くなり、国家を現実的に担っている官僚の横暴を抑制することができる。」という、この理論は、佐藤優が、イデオロギー的次元にとどまらず、存在論的地平に立って「物を考える」思想家だから導き出すことのできた理論だといっていい。


(続く)




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