文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ドストエフスキーは単なる「小説家」ではない。

小説家や批評家は言うまでもなく、いわゆる文学者は政治が好きだ。政治が嫌いだと言う小説家や批評家にしても、厳密な意味では政治そのものが嫌いという人は少ない。政治的舞台や、そこで権力欲や名誉欲、あるいは歴史的使命感や正義感から、権力闘争に明け暮れる人間達こそ、まさに文学そのものということが出来る。単に観察の対象として面白いだけではなく、実践行動の場所としても面白い。少なくとも、日本近代政治史を理論的に、また実践行動において、主導してきたのは文学者たちだったといっても過言ではない。北村透谷や二葉亭四迷が政治や革命に具体的に深い関心を寄せ、政治と文学に命賭けたことはよく知られている。また大杉栄から小林多喜二に至るまで、革命家に文学者が少なくないことは歴史が証明している。もっと具体的な身近な例で言えば、戦後日本の政治思想や政治評論は、左右を問わず、福田恒存江藤淳三島由紀夫から中野重治吉本隆明柄谷行人に至るまで、文学者たちを抜きには語れない。ところで最近の論壇やジャーナリズムにおける政治評論や政治思想の世界での発言には、文学者は二、三の例外はあるが、皆無といっていい。政治評論や政治思想の劣化を象徴している。いわゆる政治評論家や政治ジャーナリスト、新聞記者の語る「政治なるもの」は、政界裏話や永田町情報に限られている。それらが政治評論や政治思想に値しないことは明らかである。さて、ドストエフスキーを論ずる時、僕がまず第一に関心を持つのは、この「文学と政治」、あるいは「文学と革命」という問題である。山城むつみの『ドストエフスキー』論は、この問題について書くことから始めている。

ドストエフスキーは小説家ではない。いわんや哲学者、思想家、宗教家などではさらさらない、では、いったい何なのか。シェストフ、マリィ、ベルジャーエフらの、説として、また読解としてすでに古びてしまったドストエフスキー論が今でも新鮮なのは、彼らがこの驚きに動かされるままに、小説家という枠に収まりきれないドストエフスキーなるものに素手で取り組んでいるからだ。同じ驚きが現在にも届いているからだ。彼らの論じ方に難がないとは言わない。しかし、逆にこの驚きを失って、小説家ドストエフスキーの作品分析に終始する論考はその解析が精緻を極めていればいるほどつまらない。

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