文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

保守論壇のゴロツキ・西部邁は『葉隠』を読んだことがないらしい。西部邁の『葉隠』解釈は幼稚園児並みかも……。

西部邁が、民主党批判か小沢一郎批判か、あるいは尖閣事件批判tのついでに、『葉隠』を持ち出し、例によって例の通り「何でも知っています」「私に分からないことはありません」という風な詐欺師的ナラティブ(語り口)で出鱈目な『葉隠』の解説をし、その上さらに三島由紀夫の『葉隠入門』まで引き合いに出してそれを罵倒し、西部邁式の間違いだらけの珍説を恥かしげも無く披露し、最近の保守論壇の知的貧困を象徴するかのように、恥を天下に曝しているらしい。実は僕は、「will」に掲載された西部邁の文章を読んでいないが、某ブログに件のテキストの引用があったので、一読、「馬鹿か、コイツは……」というわけで、久しぶりに唖然となったというわけだ。そもそも西部邁の『葉隠』解釈はまったくの出鱈目だ。『葉隠』の本文テキストも読んでいないのではないか。これぞまさしく、僕が昔から嫌ってきた、左翼がよく使う、いわゆる「『資本論』も読まずにマルクスを講釈する」という「ハッタリ」という奴ではないか。西部邁は、ぬけぬけと、『葉隠』のテキストとは正反対のことをもっともらしく書いているわけだが、それにしても、これが、「元東大教授」にして「保守論壇の重鎮」だというから驚きである。西部邁は、こう書いているらしい。

命について言えば、僕は、昔、山本常朝の武士道について考えたことがある。『葉隠』の有名な一節には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とあり、この言葉の解釈は、少なくとも現代になお通用するように解釈しようとすると、その命題は次のようなことになる。

 「武士道とは『もしも最高の価値というものを見つけているのならば、その最高の価値のために』死になさいということだ」と。

 さらに『葉隠』には「人生一生まことにわずかのことなり、好いたことをして暮らすべきなり」とも書かれている。

 三島由紀夫さんは、「この二つの文章には矛盾があるが、山本常朝は矛盾したことを言っているから面白い」で済ませてしまった。しかし僕から言わせてもらえば、矛盾しているから面白いなどというのは文学者のとぼけた話であって、その矛盾は解決しきれないとしても、解決すべく論理を組み立てるべきです。 そこで、この二つの文章を結びつけるとこうなる。

 「人生はまことに短いから、命を賭すほどの最高の価値はなかなか見つからないかもしれないが、最高の価値を見つけることが一番好きだと構えてこその人間なんだから、それを見つけるべく暮らしなさい」と。

 「暮らす」とは、議論しなさい、間違っていたら訂正しなさい、新しいことを思いついたら人に話をしてごらんなさいということです。そういうふうに暮らしなさいと言っているわけです。

言うまでもなく、西部邁のこの『葉隠』解釈は間違っている。西部邁の解釈は、まことに理解しやすく、通俗的で、言うならば井戸端会議、ないしは居酒屋談義レベルの解釈にすぎない。「命を賭すほどの最高の価値」を見つけて、その最高の価値のために死ぬことが、『葉隠』の死の哲学の本質だというわけだが、『葉隠』の本文テキストを読むまでもなく、『葉隠』にはそんなことは書かかれていない。「命を賭すほどの最高の価値」なるもの徹底的に否定し、ただひたすら「死ぬこと」を説いたのが『葉隠』である。『葉隠』には、こういう一節がある。

武士道は死狂ひ也。一人の殺害を数十人して仕かぬもの也。直茂公も仰せられ候。(中略)又武道に於て分別出来れぱはや遅るる也。忠も孝も入らず、士道におゐては死狂ひ也。此内に忠孝は自らこもるべし。

西部邁が、『葉隠』の中の、もっとも重要な、この一節を読んでいないことは自明である。ここで、『葉隠』が、「命を賭すほどの最高の価値」等のようなものを徹底的に拒絶し、否定していることは明らかである。『葉隠』には、こんなことまで書かれている。「忠の 、義のと云ふ立上がりたる理屈が返々いや也。≫(『葉隠』聞書一ー十五)」と。つまり「忠」とか「義」というような、もっともらしい理想や観念を語るのを即刻、止めろ、そんなことを考えているうちに「死の機会」を逸するだけただ。何も考えずに、ただちに「討ち死」(犬死)にしろ、と言っている。「犬死」のススメである。「犬死」を哂う上方の文化人どもに対しては、「犬死などといふ事は、上方風の打上たる武士道なるべし……」と厳しく批判し、罵倒の言葉を浴びせている。というわけで、むしろ、「命を賭すほどの最高の価値」という発想は、『葉隠』ととは反対の考え方であって、これはまさしく転向保守・西部邁というインチキ保守の人生観でしかない。しかも、それも、借り物の、安っぽいご婦人方の井戸端会議レベル、ないしは中年オヤジの居酒屋談義レベルの人生観である。西部邁は、三島由紀夫の『葉隠入門』について、「文学者のとぼけた話」と嘲笑しているが、三島由紀夫は正確に『葉隠』を読み、理解している。三島由紀夫は、西部邁程度の凡庸な頭脳でも簡単に理解できるような「馬鹿」ではない。西部邁が『葉隠』の本文テキストを読んでいないか、読んだがその本質が理解できなかったかのいずれかである。この引用文の前後を見れば、それは一目瞭然である。

 尖閣諸島の周辺に位置するガス田開発も中国にやらせ、魚も中国に獲らせて干物にして買ったほうが安上がりだという金狂いのバカな議論は、尖閣を蟻になぞらえて悪いが、まさに蟻の一穴であって、そこからただでさえ弱い日本の国家をめぐる国民的意識が、これ以上、弱くなったら人間ではなくなってしまうのではないかというぐらいになるでしょう。
 だからこそ、僕は尖閣問題の発生にはすごく感謝している。中国様のおかげで、煙と化すほどに希薄になった日本人の国家意識がどうにかこうにか、煙として空中に消えることなく「そういえば俺たちは日本人だったんだ。野蛮な振る舞いに及んでいる中国人とは違うんだ」ということに少しは目覚めたわけです。
 僕のかすかな希望は、僕が生きている間に──あと何年か知りませんが──中国が何千もの軍艦で日本に押し寄せ、腰を抜かして怯(おび)えた日本人が駝鳥のように、頭を突っ込むどころか足や尻尾まで砂に蹲(うずくま)るのではなく、決然と頭を起こし、自助努力を発揮して反撃の準備を起こしてもらうことです。
 こんなことを言うと、「あなたは大戦争を待望しているんですか」と何人ものジャーナリストから聞かれる。評論家の宮崎正弘君から聞いた話では、日本に関して中国系の新聞には、「日本はアメリカ、韓国と三国同盟を結び、わが国とロシアその他と対決して、第三次大戦を起こす気なのか」と書かれているらしいけど、僕には戦争を待望する気などさらさらない。
 僕がはっきりさせたいのは、「戦争によって大勢の人が死ぬことを認めてはならない」「人が死なないほうが良いに決まっている」という説こそ、というよりそれを原理とする人間観こそ、人間を堕落させる腐臭を放つ思想の原点であるということです。
 生命第一主義、あるいは生命史上主義ほど人間をダメにする、ましてや国民精神をダメにする思想もありません。生命が、すなわち生き延びることが最も大事だとしてしまうと、人間は生き延びるために人を裏切ることも、嘘をつくことも、臆病風をふかすことも、不道徳のかぎりを尽くすことも、何もかも許されてしまう。
 僕は単に嘘をつくことや、不道徳を働くことがダメだと言っているわけではない。命が一番大事だと言っている人間も必ずいつかは命をなくす。したがって、生命第一主義者たちの存立基盤がなくなり、自分が生きていることの意味もなくなる。そんな君たちは何者なんだ、はたして人間なのか、と問いたいのです。

 命について言えば、僕は、昔、山本常朝の武士道について考えたことがある。『葉隠』の有名な一節には「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」とあり、この言葉の解釈は、少なくとも現代になお通用するように解釈しようとすると、その命題は次のようなことになる。

 「武士道とは『もしも最高の価値というものを見つけているのならば、その最高の価値のために』死になさいということだ」と。

 さらに『葉隠』には「人生一生まことにわずかのことなり、好いたことをして暮らすべきなり」とも書かれている。

 三島由紀夫さんは、「この二つの文章には矛盾があるが、山本常朝は矛盾したことを言っているから面白い」で済ませてしまった。しかし僕から言わせてもらえば、矛盾しているから面白いなどというのは文学者のとぼけた話であって、その矛盾は解決しきれないとしても、解決すべく論理を組み立てるべきです。 そこで、この二つの文章を結びつけるとこうなる。

 「人生はまことに短いから、命を賭すほどの最高の価値はなかなか見つからないかもしれないが、最高の価値を見つけることが一番好きだと構えてこその人間なんだから、それを見つけるべく暮らしなさい」と。

 「暮らす」とは、議論しなさい、間違っていたら訂正しなさい、新しいことを思いついたら人に話をしてごらんなさいということです。そういうふうに暮らしなさいと言っているわけです。

 日本人は戦後、命を賭すほどの最高の価値を見つける構えを全て投げ捨ててきた。そして、なによりも命が大事で通してきた。

 大東亜戦争で数百万人が犠牲になったことで日本人はすっかり腰を抜かし、亡くなった人たちはかわいそう、僕たち生きていて嬉しいな、今後ともできれば無限に生きたいものだ、と考えるようになった。

 そこで最高の価値は何か、死を賭すに値する価値は何か、それを見つけることこそが一番の好きなことだと構えてこそ、名誉ある栄えある生き方ではないか。それが見つかれば、あるいは見つからないまでも、どうもこういうものではないかと思えるまでに至り、たとえある条件が押し寄せてきて、それが戦争であったり、革命であったりしても、敢然と引き受けることができる。ただし、絶対的な価値かどうかは神のみぞ知るところであり、いつまでもあれこれと考えても神様にはなれない。ならば、とりあえずはそれらの戦いを正戦として受け入れて、可能ならば命を懸けて死んでしまえという生き方がこそが、最も活気があって楽しい生き方だ。そのことを65年間日本人は知らされず、知ろうともしてこなかった。

 だからこそ、尖閣をはじめ北方領土竹島といった領土問題その他で、中国からもロシアからも韓国からもアメ公、もといアメリカからも「お前たちの外交は5歳児か10歳児だ」とからかわれる顛末(てんまつ)になったんです。

 僕の見込みでは、これからますます精神年齢が下がり続けるでしょう。毎年1歳ずつ下がり、あと9年後には0歳児になり、中国やアメリカの属国として存在するしかなくなる。誠に困りましたなあ。

西部邁本人が自覚しているかどうかは別として、明らかに、これは、サルにも分かるようなレベルの凡庸な議論である。実は、僕は、以前、「『葉隠』をハイデッガー哲学で読み解く」という論文を書いたことがある。拓殖大学日本文化研究所の機関紙「新日本学」に発表したものである。『葉隠』に関しては、ちょっとウルサイのである。




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