文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「水嶋ヒロ」問題について。

一ヶ月ほど前に、芸能界を引退し、「小説家宣言」をしていた水島ヒロというタレントが、賞金二千万円という破格の金額が話題の「ポプラ社小説大賞」を受賞したことがわかり、ネットを中心にマスコミなどで、「出来レースではないのか?」「ゴーストライターがいるのではないか?」「編集部員が選考委員の文学賞っておかしくないのか?」等と話題になっていますが、実はこの「水嶋ヒロ」問題で、テレビ局の取材を受けました。というわけで、昨日(11月 1日)、フジテレビの午後五時からのスーパーニュースという番組に声だけでしたが出演しました。たまたま昨日は、朝日カルチャーセンターの「小説講座」の時間とぶつかり、電話取材ということになりました。ところで、その影響か知りませんが、今度はテレビ朝日の「ワイドスクランブル」から取材を受けました。今度は、電話で話しているうちに、番組に生出演ということになり、今日のお昼、テレビ朝日の「ワイドスクランブル」に出演することになりました。僕の立場は、「文学賞とはもともとそういうものだ」「営業政策としての文学賞こそ本来的なものである」というもので、水嶋ヒロの受賞に対しては批判的ではなく、むしろ肯定的です。選考委員が、有名作家ではなく、ポプラ社の編集者であることにも、疑惑が向けられていますが、この「有名作家」ではなく「編集者」が選考委員という制度には、逆に重要な意味が込められているように思います。つまり「専門家は保守的だ」という言葉があるように、「有名作家」たちの鑑識眼は、必ずしも「新しい文学」や「新しい有望な作家」を発掘し、誕生させるという側面から見ると、十分ではありません。村上春樹島田雅彦などは、芥川賞の候補にはなりましたが、受賞はしていません。かなり強く反対する選考委員の「有名作家」がいたからです。しかし、結果はどうなったか。村上春樹は、世界的なベストセラー作家となり、最近はノーベル賞候補にまで上りつめ、島田雅彦芥川賞は受賞していないにもかかわらず、皮肉なことに芥川賞の選考委員になりました。有名作家を選考委員とすると、としばしばこういう椿事が起ります。そこで、有名作家に頼らずに、編集者だけで選ぼうという文学賞が出てきたわけですが、これは面白い現象です。最近は、その傾向がますますつよくなりつつあるように見えます。本屋さんが選ぶ「本屋大賞」、書評家たちが選ぶ「このミステリーが面白い」等というような、有名作家ではなく、限りなく読者に近い選考委員による文学賞が増えつつありますが、これは文学的な地殻変動にかかわる何かを表しています。読者や編集者が読みたい小説、あるいは売りたい小説は、有名作家たちが認める作家や作品とは必ずしも一致しません。「水嶋ヒロ問題」は、文学にとどまらず、最近の、こういう「社会的変化」と連動しているように思います。 つまり「テレビ、新聞」の時代から「ネット、ブログ」の時代への情報環境の変化、一部の専門家が、情報を独占し、一方的に大衆という受け手に向かって流す時代から、読者や素人が積極的に発言する情報の「双方向性」の時代への変化です。いわゆる「小沢一郎事件」や「小沢一郎問題」もそうであり、それを受け止める読者や視聴者の反応もそうです。少なくとももこの情報の「双方向性」ということは、文学に限らず、論壇やジャーナリズムにおいても避けて通れない問題です。



人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ